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[[民族主義]]的な立場から[[儒教]]思想と因習を批判する[[啓蒙主義]]的な小説の執筆活動をおこなう。小説に留まらず、東亜日報に﹁民族的経綸﹂などの[[論説]]を掲載し、[[韓国併合|朝鮮の亡国]]の原因は[[朝鮮民族]]自身の劣位性にあるとし、民族の実力養成を説いた︵[[民族改良主義]]と呼ばれる︶。一方で、[[朝鮮総督府]]に対しては[[独立]]ではなく[[自治権]]などの権利拡大を要求した。これは一回目の転向とされ、後の植民地当局への完全な屈服の始まりとする評価がある。
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[[民族主義]]的な立場から[[儒教]]思想と因習を批判する[[啓蒙主義]]的な小説の執筆活動をおこなう。小説に留まらず、東亜日報に﹁民族的経綸﹂などの[[論説]]を掲載し、[[韓国併合|朝鮮の亡国]]の原因は[[朝鮮民族]]自身の劣位性にあるとし、民族の実力養成を説いた︵[[民族改良主義]]と呼ばれる︶。一方で、[[朝鮮総督府]]に対しては[[独立]]ではなく[[自治権]]などの権利拡大を要求した。これは一回目の転向とされ、後の植民地当局への完全な屈服の始まりとする評価がある。
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[[1937年]]に[[同友会事件]]で二度目の逮捕、収監︵半年後釈放、1941年無罪確定︶された後は、植民地当局の圧力に屈服し、二度目の転向を行い対日協力路線に転ずる。[[創氏改名]]の推奨に尽力し、自らも'''香山光郎'''と名乗った。また、のちに﹁[[親日文学]]﹂と呼ばれる、[[日本語]]による創作も行い、[[1940年]]3月には﹃無明﹄で[[朝鮮藝術賞]]を受賞している。
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[[1937年]]に[[同友会事件]]で二度目の逮捕、収監︵半年後釈放、1941年無罪確定︶された後は、植民地当局の圧力に屈服し、二度目の転向を行い対日協力路線に転ずる。[[創氏改名]]の推奨に尽力し、自らも'''香山光郎'''と名乗った。また、のちに﹁[[親日文学]]﹂と呼ばれる、[[日本語]]による創作も行い、[[1940年]]3月には﹃無明﹄で[[朝鮮藝術賞]]を受賞している。第二次世界大戦中は朝鮮人が戦争へ積極的に参加するよう呼びかけた<ref>[http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=119509&servcode=A00§code=A10 ︻その時の今日︼侵略戦争参加督励した李光洙﹁民族のため親日﹂弁解
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] 中央日報 2009.08.21</ref>。 |
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朝鮮解放後に収監され、釈放後も[[親日派]]の烙印が押され、﹁'''李狂洙'''<ref>[[朝鮮語|韓国語]]では“光”と“狂”は共に“{{lang|ko|광}}”と書く。</ref>﹂などという[[蔑称]]まで付けられ、作品の評価をうけることは少なかった。[[李承晩]]政権下では、反民族行為処罰法により検挙・投獄されるが、法廷で彼は泰然自若とした態度で﹁私の親日は祖国の為のものだ!﹂と叫んだと伝えられている。また、﹁たとえ本道ではなく邪道だったとしても、私のとった道は祖国と民族の為の物であり、其のことも理解してもらいたい。﹂と訴えたとも言われる。
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朝鮮解放後に収監され、釈放後も[[親日派]]の烙印が押され、﹁'''李狂洙'''<ref>[[朝鮮語|韓国語]]では“光”と“狂”は共に“{{lang|ko|광}}”と書く。</ref>﹂などという[[蔑称]]まで付けられ、作品の評価をうけることは少なかった。[[李承晩]]政権下では、反民族行為処罰法により検挙・投獄されるが、法廷で彼は泰然自若とした態度で﹁私の親日は祖国の為のものだ!﹂と叫んだと伝えられている。また、﹁たとえ本道ではなく邪道だったとしても、私のとった道は祖国と民族の為の物であり、其のことも理解してもらいたい。﹂と訴えたとも言われる。
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2009年9月10日 (木) 09:32時点における版
李光洙 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 이광수 |
漢字: | 李光洙 |
発音: | イ・グァンス |
日本語読み: | りこうしゅ |
ローマ字: | Lee Kwang-su |
文学 |
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李 光洙︵イ・グァンス、1892年3月5日 - 1950年10月25日︶は、朝鮮の文学者、思想家。﹁朝鮮近代文学の祖﹂とも言われる。創氏改名時の日本名は香山光郎︵かやま・みつろう︶。
経歴
日本の明治学院に留学中に小説の執筆活動を始める。帰国後、五山学校に赴任。一時シベリアを放浪するが、ロシア帝国の第一次世界大戦を受け帰国。日本に再留学し、早稲田大学に入学。その後、﹁二・八独立宣言﹂の起草に加わり上海に亡命、大韓民国臨時政府樹立に加わり、独立新聞の編集長に就任する。帰国後、逮捕されるが起訴されず釈放される。その後東亜日報に就職。後に編集長に就任する。後に朝鮮日報に移籍し、同社副社長となる。 民族主義的な立場から儒教思想と因習を批判する啓蒙主義的な小説の執筆活動をおこなう。小説に留まらず、東亜日報に﹁民族的経綸﹂などの論説を掲載し、朝鮮の亡国の原因は朝鮮民族自身の劣位性にあるとし、民族の実力養成を説いた︵民族改良主義と呼ばれる︶。一方で、朝鮮総督府に対しては独立ではなく自治権などの権利拡大を要求した。これは一回目の転向とされ、後の植民地当局への完全な屈服の始まりとする評価がある。 1937年に同友会事件で二度目の逮捕、収監︵半年後釈放、1941年無罪確定︶された後は、植民地当局の圧力に屈服し、二度目の転向を行い対日協力路線に転ずる。創氏改名の推奨に尽力し、自らも香山光郎と名乗った。また、のちに﹁親日文学﹂と呼ばれる、日本語による創作も行い、1940年3月には﹃無明﹄で朝鮮藝術賞を受賞している。第二次世界大戦中は朝鮮人が戦争へ積極的に参加するよう呼びかけた[1]。 朝鮮解放後に収監され、釈放後も親日派の烙印が押され、﹁李狂洙[2]﹂などという蔑称まで付けられ、作品の評価をうけることは少なかった。李承晩政権下では、反民族行為処罰法により検挙・投獄されるが、法廷で彼は泰然自若とした態度で﹁私の親日は祖国の為のものだ!﹂と叫んだと伝えられている。また、﹁たとえ本道ではなく邪道だったとしても、私のとった道は祖国と民族の為の物であり、其のことも理解してもらいたい。﹂と訴えたとも言われる。 朝鮮戦争中、朝鮮人民軍がソウルを占拠した際に北朝鮮に拉致され、その後、重度の凍傷に罹って10月25日、人民軍病院で結核の悪化のため死去した。評価
李光洙は元来、当時の西欧由来の﹃近代﹄思想に基づく実力養成論者であったが、それとても弾圧し、独立の希望を奪い、親日路線に走らせたのは大日本帝国植民地当局の圧力であり、李が親日路線に転じてまでも執筆を続けたのは朝鮮民族の力量の養成のためには一旦は︵朝鮮民族よりは近代化において勝っており、国力も高い︶大日本帝国の意を迎えるよりないと考えたからだとされ、彼個人の不明さよりも大日本帝國の植民地支配という構造的暴力・抑圧こそが本質的問題なのだとする意見がある[3]。 一方で、李の﹃近代西欧﹄思想に基づく民族改良主義による実力養成の論理自体が、朝鮮民族の劣位性を説き、大日本帝国の植民地支配と妥協し、これを容認する論理であり、親日に転落する可能性を秘めたもので、その点において非難を免れないとの主張もある[4]。 いずれにしても、独立後の韓国に思想信条の自由が保障されていなかったために、独裁体制の犠牲になったといえる。経歴年表
●1892年 平安北道定州で生まれる。 ●1902年 両親伝染病にて死亡。 ●1905年 留学生として渡日。 ●1910年 明治学院卒業。定州で五山学校教員。第1回の結婚。 ●1915年 早稲田大学入学。 ●1917年 朝鮮総督府機関誌毎日申報に﹃無情﹄を連載。 ●1919年 ﹁二・八独立宣言﹂の起草に加わり、上海に亡命。機関誌﹃独立新聞﹄編集。 ●1921年 結婚︵許英肅 허영숙︶。 ●1926年 東亜日報編集局長に就任。 ●1933年 東亜日報から朝鮮日報に移籍。朝鮮日報において﹃有情﹄を連載。 ●1934年 長男急死。 ●1937年 修養同友会事件で獄中生活、半年後病気により保釈。 ●1939年 ﹃世祖大王﹄出版。修養同友会事件で無罪判決︵検察側即日控訴︶。 ●1940年 朝鮮藝術賞を受賞。香山光郎と創氏改名。修養同友会事件で有罪判決︵被告側上告︶。 ●1941年 修養同友会事件で無罪判決、結審。 ●1946年 朝鮮に帰国。不起訴釈放。許英肅と離婚。 ●1949年 反民族行為処罰法で収監。 ●1950年 朝鮮戦争で拉北。凍傷、結核悪化にて死亡。主な作品
●﹁無情﹂ 朝鮮近代文学選集︵波田野節子 翻訳、平凡社) ISBN 4582302335 ●﹁金剛山の曙―朝鮮王朝世祖王﹂︵青山社︶ ISBN 4915865045 ●﹁至誠、天を動かす―大韓民国独立運動の父 島山安昌浩の思想と生涯﹂︵現代書林︶ ISBN 4876204918 ●﹁日本植民地文学精選集﹂ 日本植民地文学精選集 027︵著 香山光郎、(ゆまに書房︶ ISBN 4843303321参考
- ^ [http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=119509&servcode=A00§code=A10 【その時の今日】侵略戦争参加督励した李光洙「民族のため親日」弁解 ] 中央日報 2009.08.21
- ^ 韓国語では“光”と“狂”は共に“광”と書く。
- ^ 木村幹、朝鮮/韓国における近代と民族の相克-「親日派」を通して-, 政治経済史学 403(2000年), p.p.10--30.
- ^ 林鍾国原著, 反民族問題研究所(現・民族問題研究所)編集, コリア研究所翻訳, 親日派―李朝末から今日に至る売国売族者たちの正体, 御茶の水書房, 1992年。