「水郡善之祐」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 |
編集の要約なし |
||
9行目: | 9行目: | ||
文久3年(1863年)8月17日の[[天誅組]]の挙兵に際しては、財政面で大きな貢献をしたのみならず、自らも息子英太郎(当時13歳)とともに参加、[[小荷駄奉行]]となっている。天誅組崩壊の後捕えられ、京都[[六角獄]]にて処刑された。死後[[勤皇]]の忠臣として、明治31年(1898年)に贈[[正五位]]を賜った。 |
文久3年(1863年)8月17日の[[天誅組]]の挙兵に際しては、財政面で大きな貢献をしたのみならず、自らも息子英太郎(当時13歳)とともに参加、[[小荷駄奉行]]となっている。天誅組崩壊の後捕えられ、京都[[六角獄]]にて処刑された。死後[[勤皇]]の忠臣として、明治31年(1898年)に贈[[正五位]]を賜った。 |
||
辞世の |
辞世の歌は「皇國のためにぞつくすまごころは知るひとぞ知る神や知るらん」。 |
||
== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
2016年2月18日 (木) 08:24時点における版
水郡 善之祐︵にごり ぜんのすけ、文政9年12月12日︵1827年1月9日︶ - 元治元年7月20日︵1864年8月21日︶︶は幕末の河内の大地主で勤皇の志士。天誅組河内勢の首魁。贈正五位。
諱は長雄。姓は紀氏という。紀有常の後裔。
喜田岩五郎の長男に生まれ、水郡神社の祠官となり氏を水郡と改める。豪農で伊勢国神戸藩の代官︵大庄屋︶を勤めたため士籍に列する。勤皇の志が強く、志士達を金銭的に援助していた。水郡家︵喜田家︶は代々勤皇の家で彼の祖父も幕政批判の咎で捕えられている。
黒船来航以後、志士の動きに共鳴して京都に上るも、文久3年︵1863年︶﹁足利三代木像梟首事件﹂に関与し帰郷する。
文久3年︵1863年︶8月17日の天誅組の挙兵に際しては、財政面で大きな貢献をしたのみならず、自らも息子英太郎︵当時13歳︶とともに参加、小荷駄奉行となっている。天誅組崩壊の後捕えられ、京都六角獄にて処刑された。死後勤皇の忠臣として、明治31年︵1898年︶に贈正五位を賜った。
辞世の歌は﹁皇國のためにぞつくすまごころは知るひとぞ知る神や知るらん﹂。
参考文献
- 『水郡家諸記録/(附)重要文化財錦織神社』水郡庸皓
- 『中山家の悲劇/天誅組外伝』天誅組河内勢顕彰会、1967年
- 『天誅組河内勢の研究』水郡庸皓、1966年
- 『維新秘話中山忠伊公/天誅組外伝』水郡庸皓、1983年
- 『天誅組の菊の旗幟と半鐘並にさせんどうの不動尊』水郡庸皓、1987年