神戸藩
神戸藩︵かんべはん︶は、伊勢国河曲郡周辺を領有した藩。藩庁は神戸城︵三重県鈴鹿市神戸︶。
略史[編集]
神戸城2万石の城主だった滝川雄利は、慶長5年︵1600年︶関ヶ原の戦いに於いて西軍に属したため改易となった。替わって慶長6年︵1601年︶、尾張国黒田城︵愛知県一宮市木曽川町︶3万5000石の城主だった一柳直盛が5万石で入部し、神戸藩が成立した。 寛永13年︵1636年︶に直盛は更に加増を受け、6万8000石で伊予国西条藩に転封となった。これにより同地は幕府領となり、神戸城も主要な建築物は破却された。 慶安4年︵1651年︶、近江国膳所藩主・石川忠総の次男・石川総長が、忠総の遺領のうち神戸周辺の1万石を分与されたため、神戸藩が再興した。総長は万治3年︵1660年︶に大坂定番となり、河内国内に1万石の加増を受けた。第3代藩主・石川総茂は弟の大久保忠明に3000石を分知したため、1万7000石となった。享保17年︵1732年︶には常陸国下館藩に転封となった。 替わって河内国西代藩より本多忠統が1万石で入部した。延享2年︵1745年︶には5000石を加増され、以後1万5000石が神戸藩の知行高となった。忠統が若年寄に就任したことにより築城を許され、寛延元年︵1748年︶には神戸城が再興された。忠統は文人大名としても有名で、荻生徂徠の門人であり、また茶人としては宗範を名乗っていた。城内に﹁三教堂﹂、江戸藩邸に﹁成草館﹂という藩校をそれぞれ興したのもこの忠統である。 第5代藩主本多忠升は享和3年︵1803年︶に倹約令を出したが、自身も節食するほど徹底したものだった。また藩校を改革し、従前の古学を朱子学に変更するとともに、文化10年︵1813年︶には城内の藩校を﹁教倫堂︵こうりんどう︶﹂、江戸の藩校を﹁進徳堂﹂と改めている。 第6代藩主本多忠都の時代の嘉永7年︵1854年︶に起きた安政東海地震では、神戸城と城下町に大きな損害を被り、47人の死者が出た。 明治4年︵1871年︶、廃藩置県により神戸県となり、その後安濃津県を経て三重県に編入された。藩主家は明治2年︵1869年︶に華族に列し明治17年︵1884年︶に子爵となった。歴代藩主[編集]
一柳家[編集]
外様5万石 ︵1601年 - 1636年︶ (一)直盛幕府領[編集]
1636年 - 1651年石川家[編集]
譜代1万石→2万石→1万7000石 ︵1651年 - 1732年︶ (一)総長 加増により2万石 (二)総良 (三)総茂 分知により1万7000石本多家[編集]
譜代1万石→1万5000石 ︵1732年 - 1871年︶ (一)忠統 加増により1万5000石 (二)忠永 (三)忠興 (四)忠奝 (五)忠升 (六)忠寛 (七)忠貫幕末の領地[編集]
●伊勢国 ●三重郡のうち - 1村 ●河曲郡のうち - 14村 ●鈴鹿郡のうち - 4村 ●河内国 ●錦部郡のうち - 11村︵うち4村を膳所藩に編入︶ 明治維新後に、錦部郡1村︵旧膳所藩領︶が加わった。西代藩[編集]
西代藩︵にしだいはん︶は、江戸時代中期に河内国に存在した藩。 延宝7年︵1679年︶、近江国膳所藩第2代藩主・本多康将の次男・本多忠恒は、河内国錦部郡・近江国高島郡・甲賀郡において1万石を分知され、西代藩が立藩した。 第2代藩主・本多忠統は正徳元年︵1711年︶、西代︵大阪府河内長野市西代町︶に陣屋を構えた。忠統は大番頭・寺社奉行と昇進し、享保10年︵1725年︶には若年寄に累進した。享保17年︵1732年︶、伊勢国神戸藩に転封となり廃藩となった。歴代藩主[編集]
本多家 譜代1万石 ︵1679年 - 1732年︶参考文献[編集]
- 『藩史総覧』 児玉幸多・北島正元/監修 新人物往来社、1977年
- 『別冊歴史読本24 江戸三百藩 藩主総覧 歴代藩主でたどる藩政史』 新人物往来社、1997年 ISBN 978-4404025241
- 『大名の日本地図』 中嶋繁雄著 文春新書 2003年 ISBN 978-4166603527
- 『江戸三〇〇藩 バカ殿と名君 うちの殿さまは偉かった?』 八幡和郎著 光文社新書、2004年 ISBN 978-4334032715
外部リンク[編集]
先代 (伊勢国) (藩としては西代藩) |
行政区の変遷 1651年 - 1871年 (神戸藩→神戸県) |
次代 安濃津県 |