「氷上侵攻」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
{{単一の出典}}→{{出典の明記}}、+{{節stub}}{{独自研究範囲}}、{{Cite book}}で参考文献の情報を整備、WP:LAYに沿って節の順番を修正、File→ファイル |
→1658年の氷上侵攻: 本著書には、著者以外の比較対象が無いので独自研究に当たらないと思うが、情報源としては信頼性に欠けるので除去。 |
||
14行目: | 14行目: | ||
折しも1657年から[[1658年]]にかけて猛烈な[[寒波]]が同地を襲い、[[大ベルト海峡]](ストーラベルト海峡)と[[小ベルト海峡]](リラベルト海峡)が氷結した。カール10世は好機を見逃さず、1658年1月30日朝に小ベルト海峡を越えてフェン島に到達、2月8には大ベルト海峡を越えてシェラン島に上陸した。氷上侵攻は大成功を収め、スウェーデン軍はコペンハーゲンを包囲した。戦意を喪失したデンマークは、ロスキレ条約{{enlink|Treaty of Roskilde}}を締結。この結果スウェーデンは、北方戦争の事実上の覇者となった。 |
折しも1657年から[[1658年]]にかけて猛烈な[[寒波]]が同地を襲い、[[大ベルト海峡]](ストーラベルト海峡)と[[小ベルト海峡]](リラベルト海峡)が氷結した。カール10世は好機を見逃さず、1658年1月30日朝に小ベルト海峡を越えてフェン島に到達、2月8には大ベルト海峡を越えてシェラン島に上陸した。氷上侵攻は大成功を収め、スウェーデン軍はコペンハーゲンを包囲した。戦意を喪失したデンマークは、ロスキレ条約{{enlink|Treaty of Roskilde}}を締結。この結果スウェーデンは、北方戦争の事実上の覇者となった。 |
||
[[現代]]においても[[スウェーデン人]]はこの[[作戦]]を誇りとしている。なお、この[[戦術]]は、日本ではしばしば[[源義経]]の[[一ノ谷の戦い|鵯越]]や、[[織田信長]]の[[桶狭間の戦い]]と比較されうる<ref |
[[現代]]においても[[スウェーデン人]]はこの[[作戦]]を誇りとしている。なお、この[[戦術]]は、日本ではしばしば[[源義経]]の[[一ノ谷の戦い|鵯越]]や、[[織田信長]]の[[桶狭間の戦い]]と比較されうる<ref>武田、物語 北欧の歴史、pp. 58-59。</ref><ref>武田、物語 スウェーデン史、pp. 65-67.</ref>。
|
||
==1716年の氷上侵攻計画== |
==1716年の氷上侵攻計画== |
2015年3月5日 (木) 08:50時点における版
![]() |
![]() |
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/81/T%C3%A5get_%C3%B6ver_b%C3%A4lt2.jpg/300px-T%C3%A5get_%C3%B6ver_b%C3%A4lt2.jpg)
氷上侵攻︵ひょうじょうしんこう︶は、北方戦争︵1655年 - 1661年︶のうちのスウェーデン・デンマーク間の戦闘︵カール・グスタフ戦争︶において、スウェーデン王カール10世が指揮した、凍結した海峡を越えての奇襲侵攻作戦をいう。﹁ベルト海峡越えの進軍﹂︵スウェーデン語: Tåget över stora bält, 英語: March across the Belts︶とも称される。1658年に行われたこの作戦の成功によりスウェーデンはデンマークを屈服させ、ロスキレ条約 (Treaty of Roskilde) が締結された。
なお、大北方戦争︵1700年 - 1721年︶中の1716年にもスウェーデン本土からデンマークへの氷上侵攻が試みられた。こちらは﹁嵐に消えた氷上侵攻﹂とも呼ばれている︵第二の氷上侵攻︶。本項ではこれについても言及する。
![](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/cd/Belte_inter.png/300px-Belte_inter.png)
ユトランド半島とフュン島︵Fyn︶の間にあるのが小ベルト海峡。ヒュ ン島とシェラン島︵Sjælland︶の間にあるのがる大ベルト海峡である。シェラン島とスウェーデン本土との間にはエーレスンド海峡がある。
第一の氷上侵攻は、17世紀の北方戦争を構成する﹁カール・グスタフ戦争﹂のうち、第一次戦役 (Dano-Swedish War (1657–1658)) で行われた。
スウェーデン王カール10世はポーランドに侵攻していたが︵大洪水時代参照︶、1657年にはポーランドからの撤退を余儀なくされた。この機に乗じたデンマーク王フレデリク3世は、スウェーデンに対して宣戦布告を行った。これに対してカール10世はすぐさまポーランドからドイツを経てデンマークに侵攻し、瞬く間にユトランド半島を制圧した。しかし、デンマークの首都コペンハーゲンはシェラン島に位置しており、海峡を越えての進軍は困難であった。カール10世の進軍は止まり、デンマークを屈服させることはできなかった。
折しも1657年から1658年にかけて猛烈な寒波が同地を襲い、大ベルト海峡︵ストーラベルト海峡︶と小ベルト海峡︵リラベルト海峡︶が氷結した。カール10世は好機を見逃さず、1658年1月30日朝に小ベルト海峡を越えてフェン島に到達、2月8には大ベルト海峡を越えてシェラン島に上陸した。氷上侵攻は大成功を収め、スウェーデン軍はコペンハーゲンを包囲した。戦意を喪失したデンマークは、ロスキレ条約 (Treaty of Roskilde) を締結。この結果スウェーデンは、北方戦争の事実上の覇者となった。
現代においてもスウェーデン人はこの作戦を誇りとしている。なお、この戦術は、日本ではしばしば源義経の鵯越や、織田信長の桶狭間の戦いと比較されうる[1][2]。
1658年の氷上侵攻
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/cd/Belte_inter.png/300px-Belte_inter.png)
1716年の氷上侵攻計画
第二の氷上侵攻は、18世紀の大北方戦争における、スウェーデンとデンマークとの戦役で計画された。当時のスウェーデン王は、カール10世の孫にあたるカール12世である。 17世紀以降バルト海の覇権を握り、フィンランドを従えて﹁バルト帝国﹂と称されたスウェーデンであったが、ポルタヴァの戦い︵1708年︶においてロシア帝国に大敗を喫し、その威信と影響力は失墜することとなった。スウェーデンが体勢を立て直してロシアと対峙する上で、反スウェーデン同盟︵北方同盟︶に参加して背後からスウェーデンを脅かすデンマーク︵当時はノルウェーとの同君連合国家﹁デンマーク=ノルウェー﹂を構成していた︶を屈服させることが重要であると考えられていた。 カール12世は、当初ノルウェー方面への侵攻を考えて、スウェーデン本土のスコーネに陣取っていたが、1715年から1716年にかけてデンマークを寒波が襲った。これによりエーレスンド海峡が氷結して氷上侵攻が可能となり、カール12世はその準備を進めた。デンマーク側も58年ぶりの悪夢の再来を覚悟して島全体に防衛体制を敷いた。 ところが、スウェーデンが侵攻命令を下す直前になってエーレスンド海峡を嵐が吹き荒れ、氷は破壊され再びの架橋は期待できなくなった。この結果、作戦は中止された。カール12世は、以後デンマーク本土に対する牽制を諦め、その対象をノルウェー本土に定めて行く事となった。脚注
注釈
出典
![]() | この節の加筆が望まれています。 |