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* [[1941年]]9月22日 - [[松竹]]相談役。 |
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* [[1943年]] - [[東宝]]取締役会長(東宝映画と東京宝塚劇場の合併に伴うもの) |
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* [[1946年]] - GHQによるG項追放([[公職追放]])のため公職を辞任 |
* [[1946年]] - GHQによるG項追放([[公職追放]])のため公職を辞任 |
2020年3月8日 (日) 01:25時点における版
しぶさわ ひでお 渋沢 秀雄 | |
---|---|
生誕 |
1892年10月5日![]() |
死没 | 1984年2月15日(91歳没) |
出身校 | 東京帝国大学法科大学仏法科[1] |
職業 |
東宝取締役会長 田園都市取締役 後楽園スタヂアム監査役 東映監査役 目黒蒲田電鉄監査役 |
親 | 渋沢栄一 |
渋沢 秀雄︵しぶさわ ひでお、1892年10月5日 - 1984年2月15日︶は、東京市出身の実業家・文化人。
人物
渋沢栄一の四男として兜町の洋館で生まれる。幼少時は邸宅の近くにあった日本橋川で泳いでいた。 大学時代の1916年から1917年ころに親戚筋の女性と結婚し、長男の和男︵アコーディオン演奏者︶・華子︵小説家︶ら2男2女を成すも離婚する。1917年、東京帝国大学法科大学仏法科卒業[1][2]。日本興業銀行に勤務したが、1年半勤めて退職し、設立間もない田園都市株式会社に取締役として入社する。この会社は、田園調布や洗足田園都市の計画的で大規模な宅地開発を行い、その開発地区のための鉄道敷設・電力供給、多摩川園遊園地の運営も行った。その後は、いくつかの会社で役員を務めた。 敗戦後は、GHQによる公職追放のためそれらの職を辞し[3]、趣味の世界に生きた。随筆の執筆、絵画、俳句、長唄、小唄などをよくした。56歳時、以前から寵愛し、間に子を作っていた花柳界の女性と再婚。また、放送界の委員などを務めた。経歴
![]() |
●1892年 - 誕生
●1905年 - 東京高等師範学校附属小学校︵現・筑波大学附属小学校︶卒業
●1910年 - 東京高等師範学校附属中学校︵現・筑波大学附属中学校・高等学校︶卒業
●1913年 - 第一高等学校卒業
●1917年[1]
●東京帝国大学法科大学仏法科卒業[1]
●日本興業銀行勤務
●1919年 - オリエンタル写真工業監査役︵1928年10月辞任︶
●1920年 - 田園都市取締役
●1928年 - 目黒蒲田電鉄監査役︵目黒蒲田電鉄に田園都市が吸収合併されたため。その後の合併などにより、目黒蒲田電鉄は東京急行電鉄となる︶
●1937年 - 東宝映画監査役
●1938年 - 東京宝塚劇場監査役、後楽園スタヂアム会長(約6ヶ月間就任。以後、1983年まで監査役)
●1941年9月22日 - 松竹相談役。
●1943年 - 東宝取締役会長︵東宝映画と東京宝塚劇場の合併に伴うもの︶
●1946年 - GHQによるG項追放︵公職追放︶のため公職を辞任
●1954年 - 競輪運営審議会委員
●1958年 - 社団法人日本民間放送連盟民間放送番組審議会委員
●1960年 - 東映監査役
●1962年 - 著作権制度審議会委員
●1964年 - 社団法人日本放送連合会番組向上委員
●1973年 - 松坂屋で絵画個人展を開催。これ以降、毎年松坂屋で開催する
●1984年 - 逝去