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「湛増」の版間の差分

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これらの功績により、[[文治]]2年([[1186年]])、熊野別当知行の上総国[[畔蒜庄]]地頭職を源頼朝から改めて認められた(『吾妻鏡』)。

これらの功績により、[[文治]]2年([[1186年]])、熊野別当知行の上総国[[畔蒜庄]]地頭職を源頼朝から改めて認められた(『吾妻鏡』)。



また、文治3年([[1187年]])、湛増は、法印に叙せられ(『吾妻鏡』)、改めて正式に熊野別当に補任された(「熊野別当代々次第」)。[[建久]]6年([[1195年]])<!-- 『吾妻鏡』建久6年 5月10日条・おそらく5月を建久5年と誤読して記述されたものかと -->、上京していた[[鎌倉幕府]]の初代将軍・[[源頼朝]]と対面し、頼朝の嫡男[[源頼家]]に甲を献じ、積年の罪を赦された。

また、文治3年([[1187年]])、湛増は、法印に叙せられ(『吾妻鏡』)、改めて熊野別当に補任された(「熊野別当代々次第」)。[[建久]]6年([[1195年]])<!-- 『吾妻鏡』建久6年 5月10日条・おそらく5月を建久5年と誤読して記述されたものかと -->、上京していた[[鎌倉幕府]]の初代将軍・[[源頼朝]]と対面し、頼朝の嫡男[[源頼家]]に甲を献じ、積年の罪を赦された。



建久9年([[1198年]])に死去。享年69。極位は法印権大僧都。『[[古事談]]』によると、死後、墓堂がつくられ、家人の桂林房上座[[覚朝]]が墓守をつとめたという。

建久9年([[1198年]])に死去。享年69。極位は法印権大僧都。『[[古事談]]』によると、死後、墓堂がつくられ、家人の桂林房上座[[覚朝]]が墓守をつとめたという。


2012年9月24日 (月) 00:34時点における版


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脚注

  1. ^ 五来[1967]
  2. ^ 阪本[2005: 247-248]
  3. ^ 阪本[2005: 321]
  4. ^ 阪本[2005: 284-285]
  5. ^ 高橋[1995]、高橋[2002]参照。ただし、この出来事がいつ頃のことをさしているのかについては、史料として使用した『雑筆要書』所収の「院庁下文」などに年月日が記されていないため、厳密にいえば検討の余地があるといえる。
  6. ^ 阪本[2005: 284-287]
  7. ^ 阪本[2005: 422]
  8. ^ 田辺[2009: 49]
  9. ^ 阪本[2003: 435-436]、阪本[2005: 294]

参考文献

  • 五来重 『熊野詣―三山信仰と文化―』( 淡交社、1967年)
  • 阪本敏行 『熊野三山と熊野別当』( 清文堂出版、2005年)ISBN4-7924-0587-4
  • ― 「源平内乱と熊野三山」(『田辺市史』第一巻 田辺市、2003年)
  • ― 「熊野別当」(『別冊太陽 熊野―異界への旅―』 平凡社、2002年)
  • 高橋修 「田辺荘」(山陰加春夫編『きのくに荘園の世界』下巻、清文堂、2002年)
  • ― 「別当湛増と熊野水軍―その政治史的考察―」(『ヒストリア』146号、1995年)
  • 田辺商工会議所編 『熊野地域文化検定テキストブック 熊野検定』(2009年)ISBN978-4-007841-09-6

関連項目