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「湛増」の版間の差分

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'''湛増'''(たんぞう、[[大治 (日本)|大治]]5年([[1130年]]) - [[建久]]9年[[5月8日 (旧暦)|5月8日]]([[1198年]][[6月14日]]))は[[平安時代]]末期から[[鎌倉時代]]初期にかけて活躍した[[熊野三山]]の社僧で、21代[[熊野別当]]である。18代別当[[湛快]]の次子。[[源為義]]の娘である「たつたはらの女房([[鳥居禅尼]])」は、湛増の妻の母に当たる(『[[延慶本平家物語]]』)。「たつたはらの女房」を湛増の実母とし、熊野別当家の中に、ある種の愛憎劇を想定する説がある<ref> 五来[1967]</ref>が、これは考証をともなわない説といえる<ref>阪本[2005: 247-248]</ref>。[[武蔵坊弁慶]]の父とされるが、文学的伝承のみで確証はない。湛増の子は息子が7人、娘が5人であった([[「熊野別当代々次第」]])。嫡男の[[湛顕]]は[[1155年]]頃に生まれ、[[1202年]]頃に死去したと考えられる<ref> 阪本[2005: 321]</ref>。


''''''[[ ()|]]5[[1130]] - [[]]9[[58 ()|58]][[1198]][[614]][[]][[]][[]]()21[[]]18[[]][[]][[]][[]]<ref> [1967]</ref><ref>[2005: 247-248]</ref>[[]]75[[]][[]][[1155]][[1202]]<ref> [2005: 321]</ref>


== 生涯 ==

== 生涯 ==


2012年11月1日 (木) 02:40時点における版


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脚注

  1. ^ 五来[1967]
  2. ^ 阪本[2005: 247-248]
  3. ^ 阪本[2005: 321]
  4. ^ 阪本[2005: 284-285]
  5. ^ 高橋[1995]、高橋[2002]参照。ただし、この出来事がいつ頃のことをさしているのかについては、史料として使用した『雑筆要書』所収の「院庁下文」などに年月日が記されていないため、厳密にいえば検討の余地があるといえる。
  6. ^ 阪本[2005: 284-287]
  7. ^ 阪本[2005: 422]
  8. ^ 田辺[2009: 49]
  9. ^ 阪本[2003: 435-436]、阪本[2005: 294]

参考文献

  • 五来重 『熊野詣―三山信仰と文化―』( 淡交社、1967年)
  • 阪本敏行 『熊野三山と熊野別当』( 清文堂出版、2005年)ISBN4-7924-0587-4
  • ― 「源平内乱と熊野三山」(『田辺市史』第一巻 田辺市、2003年)
  • ― 「熊野別当」(『別冊太陽 熊野―異界への旅―』 平凡社、2002年)
  • 高橋修 「田辺荘」(山陰加春夫編『きのくに荘園の世界』下巻、清文堂、2002年)
  • ― 「別当湛増と熊野水軍―その政治史的考察―」(『ヒストリア』146号、1995年)
  • 田辺商工会議所編 『熊野地域文化検定テキストブック 熊野検定』(2009年)ISBN978-4-007841-09-6

関連項目