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「湛増」の版間の差分

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== 生涯 ==

== 生涯 ==

[[平治]]元年([[1159年]])の[[平治の乱]]では、父湛快が[[平清盛]]方につき、平氏から多大の恩顧を受けつつ、平氏政権のもと、熊野別当家内部における田辺別当家の政治的立場をより強固なものにし、その勢力範囲を牟婁郡西部から日高郡へと拡大していった。湛増もまた平氏から多大の恩顧を受けつつ、若い頃から京都と熊野を盛んに行き来し<ref>阪本[2005: 284-285]</ref>、[[承安 (日本)|承安]]2年([[1172年]])頃には京都の[[祇陀林寺]]周辺に屋敷を構え、日頃から[[隅田俊村]]などの武士を従者として養い<ref>高橋[1995]、高橋[2002]参照。ただし、この出来事がいつ頃のことをさしているのかについては、史料として使用した『雑筆要書』所収の「院庁下文」などに年月日が記されていないため、厳密にいえば検討の余地があるといえる。</ref>つつ、当時の政治情勢に関する色々な情報を集め、以前から交流のあった多くの貴族や平氏たちと頻繁に交わっていた<ref>阪本[2005: 284-287]</ref>。


[[]][[1159]][[]]18[[]][[]]西<ref>[2005: 284-285]</ref>[[ ()|]]2[[1172]][[]][[]]<ref>[1995][2002]使</ref><ref>[2005: 284-287]</ref>


承安4年([[1174年]])、新宮別当家出身の[[範智]]が20代別当に補任されるとともに、湛増が権別当に就任し、範智を補佐<ref>阪本[2005: 422]</ref>。

承安4年([[1174年]])、新宮別当家出身の[[範智]]が20代別当に補任されるとともに、湛増が権別当に就任し、範智を補佐<ref>阪本[2005: 422]</ref>。


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51130 - 9581198614()2118[1][2]75[3]11551202[4]


115918西[5]21172[6][7]

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21185使20030020003000

21186

3118761195

9119869

脚注



(一)^ [1967]

(二)^ [2005: 247-248]

(三)^ 

(四)^ [2005: 321]

(五)^ [2005: 284-285]

(六)^ [1995][2002]使

(七)^ [2005: 284-287]

(八)^ [2005: 422]

(九)^ [2009: 49]

(十)^ [2003: 435-436][2005: 294]

参考文献

  • 五来 重、1967、『熊野詣 - 三山信仰と文化』、淡交社
  • 阪本 敏行、2005、『熊野三山と熊野別当』、清文堂出版 ISBN 4-7924-0587-4
  • ―、2003、「源平内乱と熊野三山」、『田辺市史』第一巻、田辺市
  • ―、2002、「熊野別当」、『熊野 - 異界への旅』、平凡社〈別冊太陽〉
  • 高橋修、2002、「田辺荘」、山陰加春夫(編)『きのくに荘園の世界』下巻、清文堂
  • ―、1995、「別当湛増と熊野水軍 - その政治史的考察」、『ヒストリア』(146号)、NAID 40003247647 pp. 59-84
  • 田辺商工会議所編、2009、『熊野地域文化検定テキストブック 熊野検定』  ISBN 978-4907841096

関連項目