相内神社
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概要[1]
相内神社 | |
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所在地 | 北海道北見市相内町51 |
位置 | 北緯43度47分59秒 東経143度45分55秒 / 北緯43.79972度 東経143.76528度座標: 北緯43度47分59秒 東経143度45分55秒 / 北緯43.79972度 東経143.76528度 |
主祭神 | 天照大神、豊受大神 |
創建 | 1921年(大正11年) |
本殿の様式 | 神明造 |
例祭 | 9月23日 |
主な神事 | 歳旦祭、古神札焼納祭(どんど焼)、神道会祖霊祭(春秋二度)、人形感謝祭、相内大火記念鎮火祭、春季例祭、秋季例祭、屯田開拓者慰霊祭、新穀感謝祭、神宮大麻頒布始祭、除夜祭、大祓式など |
相内神社︵あいのないじんじゃ︶は北海道北見市に鎮座する神社本庁包括下︵北海道神社庁網走支部管内︶の神社。旧社格は無格社。旧相内村の大部分を氏子区域とする。
天照大神・豊受大神を祭神として祀り、境内社として相馬妙見神社、三吉神社がある。1897年︵明治30年︶から1898年︵明治31年︶にかけて、この地域に入植した屯田兵による神明奉斎を神社創立の淵源とし、同神社の祖霊殿には屯田兵及びその親族・家族の霊を祀っている。
例祭日は9月23日で、氏子区域一円において神輿渡御が行われる。特有の神事として、毎年3月︵雛祭り後の最初の日曜日︶に行われる人形感謝祭がある。
旧相内村村長・河原鶴造書
旧相内村3代村長・河原鶴造︵号・狂水︶による﹁勤倹力行﹂の書。丙寅夏の記載から1926年︵大正15年︶に書かれたものである。
由緒・歴史
相内神社の嚆矢となったのは、屯田歩兵第4大隊第3中隊に所属する屯田兵と、その家族・親族の信仰である。現在の北見市相内町周辺に屯田兵が入植したのは1897年︵明治30年︶から1898年︵明治31年︶にかけてで、現在の北見市美園に中隊本部を置き、同東相内町、同豊田に分住して開拓と訓練に励んだ。 これら三地区それぞれに小祠が祀られ、日常の参拝はもとより、春は札幌神社︵現在の北海道神宮︶の例祭日に合わせ6月15日に、秋は9月15日に祭礼を行って、崇敬心を深めるとともに日々の疲れを癒していた。 まもなく屯田兵制が廃止されたのちも多数が同地に残り、1921年︵大正10年︶、野付牛町︵現・北見市︶より分かれて相内村が成立すると、一村の鎮守神としての神社を建立すべしとの声が高まってゆく。まずは新造されてまもない村役場の敷地内西側に、神名を木標を立てて祭祀を行い、1932年︵昭和7年︶、相内小学校の御真影奉安殿が新造されると旧奉安殿を社殿として流用し、現在の相内町市街地の北方中央を社殿地と定め、遷座祭を行った。 これを機に村議会を初め、有志の間より社殿の新造営、村社昇格申請の議がたびたび起きるが、戦時体制へと移行してゆくうちに立ち消えていった。戦後、1935年︵昭和10年︶頃より日夜熱心に社殿に参拝し、氏子や崇敬者の教化に努めていた今村政男を常任神職として推す声が高まると、1952年︵昭和27年︶、同氏の私財及び氏子崇敬者の浄財をもって現社殿を造営、その後境内整備、一層の氏子教化育成を図り、今日の隆盛を見るに至る。祭神
天照大神︵あまてらすおおかみ︶ 伊弉諾尊︵いざなぎのみこと︶・伊弉冉尊︵いざなみのみこと︶の娘神。皇室の御祖神︵みおやのかみ︶にして、太陽神。皇大神宮︵伊勢の神宮・内宮︶の主祭神。皇室を初め国民崇敬の中心とされる神。高天原にて田畑を耕し、あるいは養蚕、織物をし、安定した国土を経営されたことにちなみ、国土安泰、福徳、開運、勝運を司る神とされる。 豊受大神︵とようけのおおかみ︶ 稲または五穀の精霊神で、豊受大神宮︵伊勢の神宮・外宮︶の主祭神。天照大神に食事を給仕する職掌より食物・飲食を、また衣食住、商売繁昌、厄除開運、無病息災、延命長寿を司る神とされる。祭事暦
・1月1日 歳旦祭 ・1月15日 古神札焼納祭︵どんど焼︶ ・2月3日 厄除祈願祭 ・3月上旬 人形感謝祭 ・3月下旬 神道会春季祖霊祭 ・4月22日 相内大火記念鎮火祭 ・6月15日 春季例祭 ・7月17日 境内社・相馬神社例祭 ・8月上旬 境内社・三吉神社例祭 ・9月23日 秋季例祭 ・10月下旬 屯田開拓者慰霊祭 ・11月23日 新穀感謝祭 ・11月後半 神道会秋季祖霊祭 ・12月1日 神宮大麻頒布始祭 ・12月31日 除夜祭・大祓式境内社
社宝等
交通
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外部リンク
“相内神社社務日誌”. 2019年5月6日閲覧。
“北海道神社庁:北海道の神社Data-Base”. 2019年5月6日閲覧。
脚注
- ^ 北海道神社庁.北海道の神社Data-Base http://www.hokkaidojinjacho.jp/data/10/10018.html