「石橋忍月」の版間の差分
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明治23年([[1890年]])、[[森鴎外]]の「[[舞姫]]」、「[[うたかたの記]]」等をめぐり鴎外と論争し評論の地位を高めた。しかし、[[壮年]]以降は[[文学]]からはなれ、[[長崎県]]の県会議員、弁護士として活動した。 |
明治23年([[1890年]])、[[森鴎外]]の「[[舞姫]]」、「[[うたかたの記]]」等をめぐり鴎外と論争し評論の地位を高めた。しかし、[[壮年]]以降は[[文学]]からはなれ、[[長崎県]]の県会議員、弁護士として活動した。 |
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*[[1865年]](慶応元年) - 9月1日、[[筑後国]]上妻郡湯辺田村(現在の[[福岡県]][[黒木町]])に医師 |
*[[1865年]](慶応元年) - 9月1日、[[筑後国]]上妻郡湯辺田村(現在の[[福岡県]][[黒木町]])に医師([[漢方]]医)石橋茂、フクの三男として生まれる。 |
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*[[1866年]](慶応2年) - 上妻郡福島町(現在の[[八女市]])の[[叔父]]で[[眼科]]医である石橋養元の[[養嗣子]]となる。 |
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*[[1891年]]︵[[明治]]24年︶ - 7月、[[帝国大学]]法科大学︵現在の[[東京大学]]︶卒業。8月、[[内務省 (日本)|内務省]]試補・庶務局勤務。12月、県治局勤務。
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*[[1891年]]︵[[明治]]24年︶ - 7月、[[帝国大学]]法科大学︵現在の[[東京大学]]︶卒業。8月、[[内務省 (日本)|内務省]]試補・庶務局勤務。12月、県治局勤務。
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*[[1892年]](明治25年) - 11月、内務省を退官。 |
*[[1892年]](明治25年) - 11月、内務省を退官。 |
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== 人物像 == |
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帝大在学中から[[ゴットホルト・エフライム・レッシング|レッシング]]、[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]、[[フリードリヒ・フォン・シラー|シラー]]などに親しみ、文学への目を開き[[坪内逍遥]]の『妹と背鏡』、[[二葉亭四迷]]の『浮雲』などを論じた清新な筆触で認められた。 |
帝大在学中から[[ゴットホルト・エフライム・レッシング|レッシング]]、[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]、[[フリードリヒ・フォン・シラー|シラー]]などに親しみ、文学への目を開き[[坪内逍遥]]の『妹と背鏡』、[[二葉亭四迷]]の『浮雲』などを論じた清新な筆触で認められた。 |
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== 家族・親族 == |
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; 実家(石橋家) |
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* 父 茂(漢方医) |
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* 母 フク([[田本村]]、[[庄屋]]中島宗吉三女) |
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* 長兄 近蔵 - 中島家へ養子入籍 |
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* 次兄 松次郎 |
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; 養家(石橋家) |
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* 父 養元([[眼科]]医) |
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==系譜== |
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; '''石橋家 |
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: [[八女市]]の医師石橋正良宅に伝わる﹃石橋氏系図﹄によると、八女地方の石橋一族は、[[清和源氏]]の血を引く[[肥前]]出身の[[武士]]で豊後[[大友氏]]の門族である筑後国下田城主堤貞元の重臣石橋右衛門盛清︵[[慶長]]6年没︶が[[天正]]年間︵1573年から1593年︶に、筑後国生葉郡星野村に定住したのがはじまりである。医業は盛清の3代目にあたる作右衛門教清が寛永年間︵1624年から1643年︶に起こし、爾来、分家新立によって石橋医家の繁栄がもたらされた。
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== 関連 == |
== 関連 == |
2009年5月7日 (木) 06:48時点における版
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年譜
●1865年︵慶応元年︶ - 9月1日、筑後国上妻郡湯辺田村︵現在の福岡県黒木町︶に医師︵漢方医︶石橋茂、フクの三男として生まれる。 ●1866年︵慶応2年︶ - 上妻郡福島町︵現在の八女市︶の叔父で眼科医である石橋養元の養嗣子となる。 ●1891年︵明治24年︶ - 7月、帝国大学法科大学︵現在の東京大学︶卒業。8月、内務省試補・庶務局勤務。12月、県治局勤務。 ●1892年︵明治25年︶ - 11月、内務省を退官。 ●1893年︵明治26年︶ - 11月、石川県金沢市に赴き北國新聞社顧問となる︵~1894年12月︶。 ●1895年︵明治28年︶ - 1月、弁護士登録。 ●1897年︵明治30年︶ - 11月、元田肇法律事務所に入る。 ●1898年︵明治31年︶ - 4月、京橋区法律事務所を開設。 ●1899年︵明治32年︶ - 6月長崎地方裁判所判事︵~1900年1月︶。 ●1904年︵明治37年︶ - 3月、長崎市会議員︵~1910年3月︶ ●1919年︵大正8年︶ - 9月、長崎県会議員︵~1923年9月︶ ●1921年︵大正10年︶ - 5月、帝国弁護士会理事 ●1926年︵大正15年︶ - 2月1日、死去。福岡県八女市の無量寿院に葬られる。人物像
帝大在学中からレッシング、ゲーテ、シラーなどに親しみ、文学への目を開き坪内逍遥の﹃妹と背鏡﹄、二葉亭四迷の﹃浮雲﹄などを論じた清新な筆触で認められた。家族・親族
実家︵石橋家︶ ●父 茂︵漢方医︶ ●母 フク︵田本村、庄屋中島宗吉三女︶ ●長兄 近蔵 - 中島家へ養子入籍 ●次兄 松次郎 養家︵石橋家︶ ●父 養元︵眼科医︶系譜
石橋家 八女市の医師石橋正良宅に伝わる﹃石橋氏系図﹄によると、八女地方の石橋一族は、清和源氏の血を引く肥前出身の武士で豊後大友氏の門族である筑後国下田城主堤貞元の重臣石橋右衛門盛清︵慶長6年没︶が天正年間︵1573年から1593年︶に、筑後国生葉郡星野村に定住したのがはじまりである。医業は盛清の3代目にあたる作右衛門教清が寛永年間︵1624年から1643年︶に起こし、爾来、分家新立によって石橋医家の繁栄がもたらされた。┏近蔵 ┃ ┏茂━━╋松次郎 ┃ ┃ 佐仲━意仙━━╋養元 ┗友吉 ┃ (忍月) ┗正蔵