山本健吉
山本 健吉︵やまもと けんきち、1907年︵明治40年︶4月26日 - 1988年︵昭和63年︶5月7日︶は、日本の文芸評論家。本名は石橋貞吉︵ていきち︶。俳句批評から出発し、古典から現代文学まで幅広く追究。個性と伝統の問題にせまる独自の批評を確立した。昭和を代表する文芸評論家の一人である。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。著書に﹃現代俳句﹄(1951年)、﹃古典と現代文学﹄(1955年)、﹃いのちとかたち﹄(1981年)など。
文芸評論家石橋忍月の三男。最初の妻は俳人の石橋秀野。なお秀野の妹は漫画家の清水崑の妻である歌人の清水恒子。俳文学会、日中文化交流協会、日本ペンクラブ、各会員[1]。
福岡県八女市八女市立図書館にある山本健吉資料室に展示してある山本 健吉の若き日の写真。
墓は福岡県八女市の無量寿院にある。
来歴・人物[編集]
石橋忍月の三男として、長崎市長崎市磨屋町に生まれる[1][2]。旧制長崎中学、慶應義塾大学国文科卒業。折口信夫に師事した。日本の古典詩歌に詳しく、古典作品と現代文学との関係の究明に力を注いだ。また、ながく文芸時評もつとめ、現代文学に関する著作も多い。﹁第三の新人﹂という用語を最初に用いた人物でもある。 1929年、藪秀野︵のち俳人石橋秀野︶と結婚。一人娘 安見がいる。このころ二人とも当時、非合法下の日本共産党に入党。1932年、特高警察に一か月近く勾留される。 1933年、改造社に入社し、1934年創刊の総合俳誌﹁俳句研究﹂に携わり現代俳句への造詣を深める。 1939年8月、﹁俳句研究﹂の座談会﹁新しい俳句の課題﹂で人間探求派なる用語が生まれた。司会、山本健吉、参加者、中村草田男、加藤楸邨、石田波郷、篠原梵。 同じ1939年8月に、吉田健一、西村孝次、伊藤信吉、中村光夫らと同人文芸誌﹁批評﹂を創刊し、私小説を論じる。戦時中の同人雑誌統合のなかで、堀田善衛と交友をもつ。1943年に最初の評論集﹁私小説作家論﹂を刊行。 同時期に﹁島根新聞﹂︵現・山陰中央新報︶勤務[3]、﹁京都日日新聞﹂︵現・京都新聞︶文化部長[1]。1948年から角川書店の編集長を務める[3]。 40代まで貧困に苦しむことも多かったが、戦後、俳句論を中心に現代文学など多くの分野で著述した。 1967年~1978年、明治大学教授[1]。1969年︵昭和44年︶より日本芸術院会員[4]。1972年︵昭和47年︶に日本文藝家協会理事長、のち会長となる。 1988年5月7日、急性呼吸不全のため東京都渋谷区代々木の榊原記念病院で死去[5]。 1995年、父の出身地八女に遺品を集めた山本健吉・夢中落花文庫が開設された[1]。受賞・栄典[編集]
●1949年︵昭和24年︶、﹃三田文学﹄掲載の﹁美しき鎮魂歌―﹃死者の書﹄を読みて﹂で第1回戸川秋骨賞を受賞。 ●1955年︵昭和30年︶、﹃芭蕉﹄で新潮社文学賞を受賞。 ●1956年︵昭和31年︶、﹃古典と現代文学﹄で第7回読売文学賞を受賞。 ●1960年︵昭和35年︶、﹃民俗文学講座﹄で毎日出版文化賞を受賞。 ●1963年︵昭和38年︶、﹃柿本人麻呂﹄で第14回読売文学賞を受賞。 ●1966年︵昭和41年︶、日本芸術院賞を受賞[6]。 ●1972年︵昭和42年︶、﹃最新俳句歳時記﹄で第24回読売文学賞を受賞。同年、勲三等旭日中綬章を受章。 ●1979年︵昭和54年︶、﹃詩の自覚の歴史﹄で日本文学大賞を受賞。 ●1981年︵昭和56年︶、﹃いのちとかたち﹄で野間文芸賞を受賞。同年秋に文化功労者。 ●1983年︵昭和58年︶、11月に文化勲章を受章。 ●1984年︵昭和59年︶、正月の宮中歌会始で召人となる。系譜[編集]
石橋家 八女市の医師石橋正良宅に伝わる﹃石橋氏系図﹄によると、八女地方の石橋一族は、清和源氏の血を引く肥前出身の武士で豊後大友氏の門族である筑後国下田城主堤貞元の重臣石橋右衛門盛清︵1601年︹慶長6年︺没︶が天正年間︵1573年から1593年︶に、筑後国生葉郡星野村に定住したのがはじまりである。医業は盛清の3代目にあたる作右衛門教清が寛永年間︵1624年から1645年︶に起こし、爾来、分家新立によって石橋医家の繁栄がもたらされた。┏近蔵 ┃ ┏茂━━╋松次郎 ┃ ┃ 佐仲━意仙━━╋養元 ┗友吉━━貞吉 ┃ (忍月) (山本健吉) ┗正蔵