董明徳
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董明徳 Dong Mingde | |
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生誕 |
1910年 清国遼寧省海城 |
死没 |
? 台湾 |
所属組織 |
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軍歴 | 1931 - |
最終階級 | 空軍中将 |
董 明徳︵とう めいとく、1910年 - ?︶は中華民国空軍の軍人。日中戦争時の戦闘機操縦士でエース・パイロット。遼寧省海城出身。最終階級は空軍中将。
経歴
1931年5月、南京の中央軍官学校︵第9期︶に入校。その後、中央航空学校の第2期生となった。1937年8月の第二次上海事変勃発時、董は空軍第5大隊第25中隊の副隊長を務めていた。 8月14日、上海の日本軍を攻撃した帰途、悪天候により杭州の筧橋飛行場︵第4大隊基地︶に不時着した。翌8月15日未明、根拠地の揚州へ帰還するため乗機のカーチス・ホークⅢのエンジンを暖めていたところ、日本海軍の艦攻隊が来襲した。すぐに単機で離陸した董は、八九式艦上攻撃機2機を発見、急襲して2機とも撃墜した[1]。 8月21日未明、揚州飛行場へ九六式陸上攻撃機6機︵2個小隊︶が来襲、爆撃を受けた直後に発進した董は入佐小隊を追撃し、九六陸攻1機︵毛利健栄2空曹機︶を撃墜した。董はさらにもう1機を追撃したが、乗機がオーバーブーストによりエンジン停止したため不時着を強いられた[2]。 戦闘によって中国空軍が戦闘機を消耗してしまうと、董は蘭州でソ連製戦闘機ポリカルポフ I-16を受け取り、12月1日に南京へ帰還した。第4大隊長高志航が戦死し李桂丹が大隊長となると、後任として董が第21中隊長に任命された。12月2日に南京の防空戦に参加、その後単機で出撃し大茅山や宣城で南京へ向かって進撃する日本陸軍部隊を機銃掃射して大きな損害を与えた[3]。 1938年4月29日の漢口防空戦では、日本軍機の来襲直前に離陸して高度をとると、I-16による急降下攻撃で第二連合航空隊の九六式艦上戦闘機1機を撃墜した[4]。漢口は10月27日に陥落したが、中国空軍は重慶、成都、蘭州に基地を移した。第4大隊長︵上校︶となった董は、成都に部隊を集めて訓練を行った。 1939年春、董明徳は重慶を守るために、戦闘機隊を連れて成都から重慶郊外の広陽壩飛行場へ進出することを願い出た。これは三国時代の諸葛孔明の故事にならい、俗に﹁天空の出師の表﹂と呼ばれた。そして、精錬の完了した第4大隊の戦闘機27機は成都から広陽壩へ進出し重慶の防空についた[5]。5月4日、日本海軍の九六式陸攻45機が重慶市街に爆撃し、第4大隊のI-16、I-152が迎撃戦を展開した。この戦闘で九六式陸攻2機が撃墜されたが、董はすべて部隊の協同撃墜とした。実際には董がI-16で1機を撃墜していたが、董は部隊の士気を鼓舞するためスコアを譲って協同撃墜扱いにしたとされる[6]。 1939年秋、広陽壩飛行場へアメリカ製新戦闘機カーチス・ライト CW-211機がビルマを経由して空輸されてきた。董はCW-21に試乗してテスト飛行をおこない、初めて扱うフラップを降ろして着地を試みたが、接地点を誤って転倒し重傷を負ってしまった[7]。この事故で董は現役パイロットからは引退に追い込まれた。董明徳の撃墜数は、中国空軍の記録では7機となっており、日本側の記録で確認できるものは4機がある。中山雅洋によると、中国側の戦記から判断すれば、実際には10機程度に達する可能性があるとしている[8]。 第二次世界大戦、国共内戦後は台湾へ渡り、空軍総司令部政治作戦部主任中将や空軍指揮参謀学校校長などを歴任した[9][10]。台湾で病没したが、没年月日は不明。脚注
参考文献
- 中山雅洋 『中国的天空(上)沈黙の航空戦史』 大日本絵画、2007年。ISBN 978-4-499-22944-9
- 秦郁彦 / 航空情報編集部 『第2次大戦 世界の戦闘機隊』― 付・エ-ス列伝、酣灯社、1987年。ISBN 978-4873570105