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若年より叔父の[[藤原能信|能信]]の養子となり、その後継者として世に出る。[[長久]]4年︵[[1043年]]︶に[[参議]]、[[治暦]]4年︵[[1068年]]︶に[[権大納言]]と立身して、[[承暦]]4年︵[[1080年]]︶に[[内大臣]]に至り、'''三条内大臣'''と号した。最終的な位階は[[正二位]]。能信より尊仁親王の[[春宮大夫]]の職を引き継ぎ、親王が[[後三条天皇]]として即位すると、その側近として権勢を奮った。娘の[[藤原道子|道子]]は後三条の子である[[白河天皇]]の女御となっている。
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若年より叔父の[[藤原能信|能信]]の養子となり、その後継者として世に出る。[[長久]]4年︵[[1043年]]︶に[[参議]]、[[治暦]]4年︵[[1068年]]︶に[[権大納言]]と立身して、[[承暦]]4年︵[[1080年]]︶に[[内大臣]]に至り、'''三条内大臣'''と号した。最終的な位階は[[正二位]]。能信より尊仁親王の[[春宮大夫]]の職を引き継ぎ、親王が[[後三条天皇]]として即位すると、その側近として権勢を奮った。娘の[[藤原道子|道子]]は後三条の子である[[白河天皇]]の女御となっている。
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== 官位 == |
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*長元8年(14歳)従五位下、侍従 |
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*同9年 従五位上、蔵人、兼左兵衛佐 |
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*長暦元年 正五位下 |
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*同2年 従四位下、侍従 |
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*長久2年 従四位上 |
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*同3年 蔵人頭、右近衛中将、正四位下 |
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*同4年(22歳)兼播磨権介、参議 |
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*寛徳2年 兼播磨権守、従三位 |
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*同3年 兼左中将 |
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*永正5年 正三位、従二位 |
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*同6年 兼備後権守 |
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*天喜4年 兼播磨権守 |
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*康平4年 権中納言 |
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*同5年 兼右衛門督 |
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*同7年 正二位 |
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*同8年 兼春宮権太夫、検非違使別当、左衛門督、春宮太夫 |
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*治暦4年 権大納言 |
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*承暦4年 内大臣、兼皇太子傅 |
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2008年1月21日 (月) 10:26時点における版
藤原 能長︵ふじわら の よしなが、治安2年︵1022年︶ - 永保2年11月14日︵1082年12月6日︶︶は平安時代中期から後期にかけての公卿。右大臣藤原頼宗の三男。母は藤原伊周の娘。妻は昭登親王の娘、源済政の娘など。
若年より叔父の能信の養子となり、その後継者として世に出る。長久4年︵1043年︶に参議、治暦4年︵1068年︶に権大納言と立身して、承暦4年︵1080年︶に内大臣に至り、三条内大臣と号した。最終的な位階は正二位。能信より尊仁親王の春宮大夫の職を引き継ぎ、親王が後三条天皇として即位すると、その側近として権勢を奮った。娘の道子は後三条の子である白河天皇の女御となっている。