藤田亮策
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1892年8月25日、新潟県古志郡上北谷村大字八十刈古新田十二番地に、藤田福十郎、タケの次男として生まれる。1915年7月、一高の第三部医科を卒業し、東京帝大医科大学に入学するが、近眼のため医者になる道を断念して、同年10月文科大学に転学し、国史学を専攻する。文科大学では黒板克美の指導を受け、1918年7月、卒業論文﹁江戸時代の漕運﹂を提出して史学科を卒業する。この時はまでは関心の対象は交通史であり、考古学に深い関心を寄せてはいなかった。同年、文部省の維新史料編纂事務嘱託となる。
1922年、恩師黒板の紹介で朝鮮総督府古墳調査委員となり、京城に着任する。この時、古墳調査課の課長は小田省吾であった。以後、終戦まで考古学を専門とする。1923年朝鮮博物館協議委員となり、学務局の博物館主任となる。1924年、古墳調査課廃止のため、朝鮮総督府編修官に任じられる。藤田曰く、﹁大正十五年に京城大学ができ助教授に拾われるまで、教科書編修官・朝鮮史修史官を転々居候を続け﹂たとのことである。1926年、京城帝大助教授となり、法文学部の勤務となる。1929年、青丘学会が創立され、その評議員・委員となる。1932年、京城帝大教授となっていた小田省吾が定年退職し、また同教授の今西龍が亡くなったため、そのあとをうけて京城帝大教授となる。朝鮮史学第一講座を担当。1933年、朝鮮史編修委員、朝鮮宝物古墳名勝天然記念物保存委員会委員となる。1941年、京城帝大法文学部長となるが、1943年には解任されている。
1945年10月に引き揚げ、千葉県に移り住んでいる。1947年、教育職員適格審査に合格し、再び教壇に立つことが許される。1948年、日本考古学協会委員長、日本学術会議会員に選出される。1949年、東京芸術大学教授となり、文庫課長となる。1950年、天理大学で高橋亨らと朝鮮学会を結成し、その幹事となる。1955年、東京芸術大学評議員、同附属図書館長となる。1959年、奈良国立文化財研究所所長となる。
1960年12月12日、没。享年68歳。