藤田亮策
人物情報 | |
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生誕 |
1892年8月25日 日本新潟県 |
死没 | 1960年12月12日 (68歳) |
出身校 | 東京帝国大学 |
学問 | |
研究分野 | 考古学・歴史学 |
研究機関 | 朝鮮総督府古蹟調査課・京城帝国大学・東京芸術大学 |
藤田 亮策︵ふじた りょうさく、1892年︿明治25年﹀8月25日 - 1960年︿昭和35年﹀12月12日︶は、日本の考古学者。
経歴[編集]
出生から学生時代[編集]
1892年、新潟県古志郡上北谷村︵現見附市/長岡市︶に、父・藤田福十郎、母・タケの次男として生まれた。1915年︵大正4年︶7月、旧制第一高等学校の第三部医科を卒業し、東京帝国大学医科大学に入学するが、近眼のため医者になる道を断念して、同年10月文科大学に転学し、国史学を専攻した。文科大学では黒板勝美の指導を受け、1918年︵大正7年︶7月、卒業論文﹁江戸時代の漕運﹂を提出して史学科を卒業。この時はまでは関心の対象は交通史であり、考古学に深い関心を寄せてはいなかった。大学卒業後から朝鮮半島引き上げまで[編集]
大学を卒業後の1918年、文部省の維新史料編纂事務嘱託となった。1922年︵大正11年︶、恩師黒板の紹介で朝鮮総督府古蹟調査委員となり、京城に赴任。この時の古蹟調査課課長は小田省吾であった。以後、終戦まで考古学を専門的に調査・研究していった。1923年︵大正12年︶朝鮮博物館協議委員となり、学務局の博物館主任となった。1924年︵大正13年︶、古蹟調査課廃止のため、朝鮮総督府編修官に転任。藤田曰く、﹁大正十五年に京城帝国大学ができ助教授に拾われるまで、教科書編修官・朝鮮史修史官を転々居候を続け﹂たと後述している。1926年︵大正15年︶、京城帝国大学助教授となり、法文学部づきとなる。1929年︵昭和4年︶﹁青丘学会﹂が創立されると、その評議員・委員となった。1932年︵昭和7年︶、京城帝大教授となっていた小田省吾が定年退職し、また同大学教授の今西龍が亡くなったため、その後をうけて京城帝大教授に昇進し、朝鮮史学第一講座を担当した。1933年︵昭和8年︶、朝鮮史編修委員、朝鮮宝物古蹟名勝天然記念物保存委員会委員となった。1941年︵昭和16年︶、京城帝大法文学部長となった︵1943年︵昭和18年︶まで︶。戦後[編集]
太平洋戦争が終結すると、1945年︵昭和20年︶10月に日本へ引き揚げ、千葉県に移住した。1947年、教育職員適格審査に通り、再び教壇に立つことが可能となった。1948年、日本考古学協会委員長、日本学術会議会員に選出。1949年、東京芸術大学教授となり、文庫課長となった。1950年、天理大学で高橋亨らと朝鮮学会を結成し、その幹事に就任。1955年からは、東京芸術大学評議員、同附属図書館長をつとめた。1959年︵昭和34年︶、奈良国立文化財研究所所長に就いたが、翌1960年に没した。享年68歳。研究内容・業績[編集]
著作[編集]
単著[編集]
●﹃朝鮮古代文化﹄岩波書店︿岩波講座日本歴史﹀、1934年9月。 NCID BN0820516X。全国書誌番号:46078742。
●﹃朝鮮考古学研究﹄高桐書院、1948年8月。 NCID BN02714659。全国書誌番号:46005076 全国書誌番号:52006802。
●﹃朝鮮の歴史﹄福村書店︿アジアの歴史文庫﹀、1953年。 NCID BN1474921X。全国書誌番号:45021866。
●﹃朝鮮学論考﹄藤田先生記念事業会、1963年3月。 NCID BN05180379。全国書誌番号:63011390。
●﹃考古学﹄国書刊行会、1976年5月。 NCID BN01899810。全国書誌番号:73014282。
●﹃藤田亮策集﹄築地書館︿日本考古学選集19﹀、1981年11月。 NCID BN0204351X。全国書誌番号:82044676。