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「藤野古白」の版間の差分

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==生涯==


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[[愛媛県]][[久万町]]に生まれた。母親の十重は子規の母、八重の妹で、古白は子規の4歳、年下である。7歳で母を失い、9歳で家族ととも東京に移った。1883年子規が上京し、一年ほど子規は、古白の父、藤野漸の家に下宿した。生まれつき神経症の症状があり、1889年、[[巣鴨病院]]に入院、退院後[[松山市|松山]]で静養した。このころ[[高浜虚子]]や[[河東碧梧桐]]とも親しくなった。1891年[[東京専門学校]](現早稲田大学)に入学し文学を学んだ。初期には[[俳句]]に才能をみせ、子規をして「二十四年の秋、俳句句合数十句を作る。趣向も句法も新しく且つ趣味の深きこと当時に在りては破天荒ともいふべく余等儕輩を驚かせり。<中略>此等の句はたしかに明治俳句界の啓明と目すべき者なり」(「藤野潔の傳」)と言わしめた。しかし後年、子規の俳句観から離反するようになり、子規は「二十七年の頃より彼は却つて月並調を学びて些細の穿ちなどを好むに至り、その俳句は全く価値を失ひたり」(同)と否定的に述べるようになった。また、同じ頃より[[坪内逍遥]]らの文芸サークルと交わるようになり、[[小説]]、[[戯曲]]に転じて、戯曲「人柱築島由来」を「[[早稲田文学]]」に掲載したが世間の評価は得られなかった。戯曲発表の1ヶ月後に、「現世に生存のインテレストを喪ふに畢りぬ。」の遺書を残してピストル自殺した<ref>『子規山脈 <small>師弟交遊録</small>』日下徳ー(著)朝日新聞社(2002年)</ref>。



古白の三回忌にあわせて、正岡子規が病苦をおして『古白遺稿』を編集し、子規による伝記「藤野潔の傳」や追悼の新体詩、逍遥、[[島村抱月]]らの追悼文、漱石、虚子らの悼句と合わせて刊行された。

古白の三回忌にあわせて、正岡子規が病苦をおして『古白遺稿』を編集し、子規による伝記「藤野潔の傳」や追悼の新体詩、逍遥、[[島村抱月]]らの追悼文、漱石、虚子らの悼句と合わせて刊行された。


2018年11月6日 (火) 15:39時点における版


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  • 「橋踏みにひとり行くなり秋の暮」 (年代不明)
  • 「乞食を葬る月の光かな」 (年代不明)
  • 「冬の月淋しがられて冴えにけり」 (年代不明)
  • 「花の頃西行もせぬ朝寝かな」 (明28-4-4/辞世)

参考文献

  1. ^ 『子規山脈 師弟交遊録』日下徳ー(著)朝日新聞社(2002年)
  2. ^ 『子規を語る』 河東碧梧桐(著)岩波文庫

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