藤野古白
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藤野古白︵ふじの こはく、1871年9月22日︵明治4年8月8日︶ - 1895年︵明治28年︶4月12日︶は日本の俳人・劇作家・小説家である。正岡子規の従弟である。自殺した。没後、正岡子規が﹃古白遺稿﹄︵1897年︶を刊行した。
本名、藤野潔。愛媛県、久万町に生まれた。母親の十重は子規の母、八重の妹で、古白は子規の4歳、年下である。7歳で母を失い、9歳で家族ととも東京に移った。1883年子規が上京し、一年ほど子規は、古白の父、藤野漸の家に下宿した。生まれつき神経症の症状があり、1889年、巣鴨病院に入院、退院後松山で静養した。このころ高浜虚子や河東碧梧桐とも親しくなった。1891年東京専門学校︵現早稲田大学︶に入学し文学を学んだ。初期には俳句に才能をみせ、子規をして﹁二十四年の秋、俳句句合数十句を作る。趣向も句法も新しく且つ趣味の深きこと当時に在りては破天荒ともいふべく余等儕輩を驚かせり。<中略>此等の句はたしかに明治俳句界の啓明と目すべき者なり﹂と言わしめた。しかし後年、子規の俳句観から離反するようになり、子規は﹁二十七年の頃より彼は却つて月並調を学びて些細の穿ちなどを好むに至り、その俳句は全く価値を失ひたり﹂と否定的に述べるようになった。また、同じ頃より坪内逍遥らの文芸サークルと交わるようになり、小説、戯曲に転じて、戯曲﹁人柱築島由来﹂を﹁早稲田文学﹂に掲載したが世間の評価は得られなかった。戯曲発表の1ヶ月後に、﹁現世に生存のインテレストを喪ふに畢りぬ。﹂の遺書を残してピストル自殺した[1]。
古白の三回忌にあわせて、正岡子規が病苦をおして﹃古白遺稿﹄を編集し、子規による伝記﹁藤野潔の傳﹂や追悼の新体詩、逍遥、島村抱月らの追悼文、漱石、虚子らの悼句と合わせて刊行された。
古白の死
河東碧梧桐の﹃子規を語る﹄には﹁古白の死﹂の一章が設けられ、古白の自殺前後の周辺の事情が回想されている。古白はよく死を口にしたが、その前日まで変事を予想させるようなことはなかった。以前から古白は知人がピストルをもっているのを聞いていて撃ちたがっていたが知人はそれを許さなかった。自殺の前日の夜、銃を盗みだし、4月7日に前頭部、後頭部を撃った。病院に運ばれ、治療をうけるが4月12日に死亡した。内藤鳴雪や碧梧桐らが看護にあたったが言葉をきける状態ではなかった。当時子規は日清戦争の従軍記者として広島で出発を待っている時であった[2]。句の例
- 「今朝見れば淋しかりし夜の間の一葉かな」
- 「東京といふ名に残る暑さかな」
- 「南とも北ともいはず秋の風」