「陳皇后 (漢武帝)」の版間の差分
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2024年5月22日 (水) 08:15時点における最新版
陳皇后 | |
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前漢の皇后 | |
![]() 『百美新詠図伝』 | |
在位 | 紀元前141年 - 紀元前130年 |
全名 | 陳阿嬌(小字) |
配偶者 | 武帝 |
父親 | 堂邑侯陳午 |
母親 | 館陶公主 |
陳皇后︵ちんこうごう︶は、前漢の武帝の最初の皇后。武帝の従姉妹にあたる。
略歴[編集]
母は武帝の父の景帝の同母姉の館陶公主︵堂邑長公主︶劉嫖。父は堂邑侯陳午。 館陶公主は娘を皇太子に娶わせようと思ったが、当時の皇太子で甥である劉栄︵武帝の異母兄︶の母の栗姫が館陶公主と仲が悪かった。そこで館陶公主は景帝に王夫人の子である劉徹︵武帝︶を褒め、王夫人を皇后、劉徹を皇太子にすることに成功した。 武帝が即位すると彼女は皇后となり、寵愛をほしいままにしたが、10年以上も子ができなかった。一方で衛子夫が武帝に寵愛されたと聞くと、皇后は彼女の死を願い、一族も弟の衛青を連れ去り監禁するほどだった。皇后は呪術を用いて呪い、それが発覚して元光5年︵紀元前130年︶に廃位された。 母の館陶公主は姪である武帝の同母姉の平陽公主に﹁皇帝は私がいなければ皇太子になれなかったのに、どうしてわが娘を捨てるのだ﹂と訊いたが、平陽公主は﹁彼女に子ができないからです﹂と答えた。皇后は子が授かるようにと医者に多額の金を使ったが、結局子はできなかった。 十数年後に館陶公主が死去し、その数年後には陳皇后も亡くなった。備考[編集]
中国の古典小説﹃漢武故事﹄では、陳皇后の小字を阿嬌としている。﹃漢武故事﹄にはまた、次のエピソードがある。 長公主はまだ幼い皇太子の劉徹と娘の阿嬌を会わせ、劉徹に﹁阿嬌を得たいかい?﹂と訊いた。劉徹は﹁もし阿嬌を得る事ができたら、金の建物に住まわせるよ﹂と答えたので、長公主は喜んで娘を彼に娶わせ、阿嬌は皇太子妃となった。 大変な美人だったという。東晋の書物﹃漢宮春色﹄は前漢の后妃8名を評価し、その中で陳皇后、王昭君、李夫人、邢夫人︵武帝の妃︶が﹁比類のない美人である﹂と評されている。戚夫人、班倢伃が﹁世の中にも珍し、前の4人に次ぐものであった﹂と評されている。傅皇后、王皇后が﹁ただの一般人の容姿である﹂と評されている。 南朝梁の﹃文選﹄では、陳后が武帝の寵愛を失った後、百両のお金を使って司馬相如に﹃長門賦﹄を書いてほしいと頼む。武帝が読んだ後は陳后に憐みの心を起こした。陳后は再び武帝の寵愛を得た。参考文献[編集]
登場作品[編集]
- テレビドラマ
- 『漢武大帝』(2004年、中国、演:徐紅娜)
- 『美人心計〜一人の妃と二人の皇帝〜』(2012年、中国、演:ゴン・ミー)
- 『賢后 衛子夫』(2014年、中国、演:チョン・ユエンユエン)