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'''高島 平三郎'''︵たかしま へいざぶろう、[[1865年]][[11月18日]]︵[[慶応]]元年[[10月1日 (旧暦)|10月1日]]︶ - [[1946年]][[2月15日]]︶は、[[日本]]の[[教育者]]、[[心理学者]]<ref name="kb-dnp">{{kotobank|高島平三郎|デジタル版 日本人名大辞典+Plus}}</ref>、[[スポーツ科学|体育学者]]<ref name="kb-20c">{{kotobank|高島平三郎|20世紀日本人名事典}}</ref>、[[社会教育]]活動家で、[[東洋大学]]学長などを務めた。号は蜻州、字は士信<ref name="seishikan">{{Cite web|和書|url=http://wp1.fuchu.jp/~sei-dou/jinmeiroku/takashima-heizaburou/takashima-heizaburou.htm|title=高島平三郎 たかしま・へいざぶろう 教育者、心理学者、著述家|publisher=福山誠之館同窓会|accessdate=2016-05-26}}</ref>。 == 経歴 ==
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* [[佐藤朝泰]] 著 『閨閥 日本のニュー・エスタブリッシュメント』 [[学研ホールディングス|立風書房]]、[[1981年]][[10月30日]]第1刷発行
* 佐藤朝泰 著 『門閥 <small>旧華族階層の復権</small>』 立風書房、[[1987年]][[4月10日]]第1刷発行、ISBN 4-651-70032-2
▲== 脚注 ==
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== 外部リンク ==
* [https://www.toyo.ac.jp/site/oc/fp.html 歴代学長|東洋大学]
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人物情報 | |
---|---|
生誕 |
1865年11月18日![]() |
死没 | 1946年2月15日 (80歳没) |
出身校 | <広島県広島師範学校福山分校 |
子供 | 高島文雄(長男) |
学問 | |
研究分野 | 心理学・教育学 |
研究機関 | 東洋大学 |
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/48/Mr._Heizaburo_Takashima%2C_lecturer_of_the_Toyo_University_and_the_Nichiren_Shu_University.jpg/200px-Mr._Heizaburo_Takashima%2C_lecturer_of_the_Toyo_University_and_the_Nichiren_Shu_University.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c8/Mr._Heizaburo_Takashima_in_his_study_room.jpg/200px-Mr._Heizaburo_Takashima_in_his_study_room.jpg)
高島 平三郎︵たかしま へいざぶろう、1865年11月18日︵慶応元年10月1日︶ - 1946年2月15日︶は、日本の教育者、心理学者[1]、体育学者[2]、社会教育活動家で、東洋大学学長などを務めた。号は蜻州、字は士信[3]。
経歴[編集]
備後福山藩士であった高島賢斎の三男として、幕末の江戸・西片町の福山藩邸に生まれた[3]。1868年に福山へ移り、1872年に藩校誠之館に学び、1873年には西町上小学校に入学して、1877年に卒業した[3]。 1878年に広島県広島師範学校福山分校に入学し、1880年には15歳で西町上小学校教員となり、さらに1881年以降は神村小学校須江分校、松永小学校、金江町金見小学校を務め、1884年から金江小学校校長を務めた[3]。1887年3月に広島県師範学校訓導・助教に転じたが、同年10月には東京高等師範学校附属小学校教授掛補助となって上京し、1888年から学習院の教員となった[3]。次いで1896年から1898年には長野県師範学校に勤めたが、その後東京に戻っていくつかの教職を経て、1901年11月に日本体育会体操学校︵日本体育大学の前身︶校長となり、1903年︵ないし1897年[2]︶に日本女子大学校︵日本女子大学の前身︶教授となった[3]。この間に、独学で心理学、児童学を学び[1]、西方町・私立女子高等学園校長、立正高等女学校︵東京立正中学校・高等学校の前身︶校長などを兼務し[3]、さらに日蓮宗大学︵立正大学の前身︶教授、東洋大学教授を兼ねた[2][3]。1944年11月から1945年7月まで、東洋大学第13代学長を務めた[3]。[4][5]。研究内容・業績[編集]
児童心理学にもとづいた教育を提唱して、教科書の作成などにも取り組み、体育学の構築に大きく寄与した[2]。受賞・栄典[編集]
●1928年‥教育功労者表彰を受け、勲五等瑞宝章を受章した[3]。家族・親族[編集]
●長男‥高島文雄は弁護士[6]。文雄の妻は実業家・近藤賢二の次女[6]。 ●孫に弁護士の高島信之︵文雄の長男︶と小岩井農牧常務や博報堂取締役等を歴任した高島孝之︵文雄の次男︶がいる[7][8]。信之の妻は元第一生命社長・矢野一郎の次女[7][8]、孝之の妻は元三菱地所取締役・岩崎彦弥太の三女なので[7][8]、高島家は三菱財閥の創業者一族・岩崎家と姻戚関係を持つことになった。脚注[編集]
出典[編集]
(一)^ abデジタル版 日本人名大辞典+Plus﹃高島平三郎﹄ - コトバンク
(二)^ abcd20世紀日本人名事典﹃高島平三郎﹄ - コトバンク
(三)^ abcdefghij“高島平三郎 たかしま・へいざぶろう 教育者、心理学者、著述家”. 福山誠之館同窓会. 2016年5月26日閲覧。
(四)^ 同じく社会教育家として著名で、同時期に東洋大学に関係し、前後して学長を務めた高嶋米峰とは、当時からしばしば混同されることがあったが、両者の関係は良好であったという
(五)^ 坪内祐三﹁高島平三郎﹂﹃20世紀ニッポン異能・偉才100人﹄朝日新聞社、1993年11月5日、192-193頁。
(六)^ ab﹃人事興信録 第14版 下﹄、タ109頁。
(七)^ abc﹃閨閥﹄、304-305頁。
(八)^ abc﹃門閥﹄、262-263頁。