中島徳蔵
中島 徳蔵︵なかじま とくぞう、文久4年2月2日︵1864年3月9日︶ - 昭和15年︵1940年︶5月31日[1]︶は、日本の教育者。文部省を相手に論争した哲学館事件で知られる。
哲学館事件を報じる﹃東京朝日新聞﹄
群馬県出身。明治18年︵1885年︶、旧制群馬県中学校︵現・群馬県立前橋高等学校︶を卒業[2]。東京帝国大学哲学科卒業後、哲学館︵東洋大学の前身︶にて西洋倫理学と倫理学を担当。哲学館講師時代の明治33年︵1900年︶、文部省からの再三の要請を受け、修身教科書起草委員に就任するも、就任してからおよそ半年で解職させられる。委員会では、修身の教科書を﹃教育勅語﹄をもととして作成しようとしていたのに対し、委員に就任した徳蔵の私案が、児童に対しては智仁勇の三徳の涵養を中心としたほうが﹃教育勅語﹄よりも理解しやすい、というものであったため、これが勅語撤回論と見なされたからであった。
明治35年︵1902年︶、徳蔵担当の教育部第一科︵教育倫理科︶の卒業試験に関して哲学館事件が起きた。同年哲学館を論旨退職。翌年、読売新聞に﹁余が哲学館事件を世に問ふ理由﹂を投稿し、哲学館事件を世に知らしめる。読売新聞には、1月28日から30日にかけてその全文が掲載され、以後社会問題化し物議を醸す。なお、1月29日付けの読売新聞には、文部省による反論﹁当事者たる隈本視学官の談﹂が掲載されている。この隈本視学官とは隈本有尚のことである。ちなみにこの隈本と、文部省の﹁教科書疑獄事件﹂に関与していたとされる隈本繁吉視学官、それと普通学務局第一課長・本間則忠らの臨監のもと、事の発端となる試験が行われている。
同年2月、哲学館学生と卒業生により、徳蔵に対する見舞金の募集が始まり、3月に徳蔵に渡される。当初徳蔵はこれを拒否するも、説得され受け入れる。この見舞金は、哲学館へ図書を寄贈することに用いられ、寄贈本は現在の東洋大学附属図書館に現存している。
明治36年︵1903年︶に2度目の洋行から帰国した哲学館創立者・井上円了によって明治38年︵1905年︶に再び講師に復職。大正15年︵1926年︶2月から昭和3年︵1928年︶3月まで東洋大学第6代学長、昭和4年︵1929年︶9月から昭和6年︵1931年︶7月まで第7代学長を務め、大学令による東洋大学の昇格、新校舎や図書館の建設、神道講座の開設など積極的に大学の発展に尽くした。
東京工業学校、正則中学校、跡見女学校、共立女子職業学校にても教鞭をとった。
経歴[編集]
主な著書[編集]
- 加藤弘之との共著『明治女大学』、大日本図書、明治35年(1905年)12月
- 『実践倫理講話』、同文館、明治44年(1911年)10月25日
- 『現世処世指針』、東洋大学出版部、明治45年(1912年)
- 『論語の組織的研究』、中島徳蔵先生追憶記念会、昭和16年(1941年)
脚注[編集]
出典[編集]
- ^ 中島徳蔵 - 伊勢崎銘仙アーカイブス
- ^ “母校人物群像Ⅰ(明治・大正期)” (PDF). maetaka-ob.jp. 群馬県立前橋高等学校同窓会. 2024年1月2日閲覧。