高頭仁兵衛
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高頭 仁兵衛︵たかとうじんべえ/にへえ、1877年5月20日[1] - 1958年4月6日︶は、明治から昭和にかけての登山家。仁兵衛は高頭家当主の代々の名乗りで、本名は式︵しょく︶、号は義明。
新潟県三島郡深沢村︵現在の長岡市︶[2]の豪農の家に生まれる。学生時代の恩師・大平晟の指導と志賀重昂の﹃日本風景論﹄の影響で登山に目覚めるが、母親から登山を禁じられてしまう[3]。しかし、これをきっかけに地理書・紀行書を蒐集し、小島烏水の勧めもあって1906年に﹃日本山嶽志﹄を刊行する[3][4]。
1905年、小島烏水が日本山岳会を結成した際に発起人の1人に加わっただけでなく、その資金を提供し、また機関誌﹃山岳﹄の初期の発行人を務めた[3][4]。その後は烏水らと共に各地の山を登り、日本アルプスの探検登山の中心人物となった[3]。1933年には日本山岳会の第2代会長に就任している[4]。
著作に﹃日本山嶽志﹄・﹃日本太陽暦年表﹄・﹃御国の咄﹄などがある[3][4]。
脚注
参考文献
- 山崎安治「高頭仁兵衛」徳久球雄 編『岳人事典』東京新聞出版、1983年 ISBN 978-4-808-30148-4 P141.
- 近藤信行「高頭仁兵衛」『日本人名大事典』[補巻・現代]平凡社、1979年 ISBN 978-4-582-12200-8 P444.
学職 | ||
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先代 小島烏水 初代:1906年 - 1933年 |
日本山岳会 会長 第2代:1933年 - 1935年 |
次代 木暮理太郎 第3代:1935年 - 1944年 |