お亀の方
お亀の方 / 相応院 | |
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お亀の方像(清涼院蔵) | |
生誕 | 天正元年(1573年) |
死没 | 寛永19年9月16日(1642年10月9日) |
別名 | 戒名:相応院殿信誉公安大禅定尼 |
時代 | 安土桃山時代〜江戸時代前期 |
配偶者 | 竹腰正時、石川光元、徳川家康 |
子供 |
竹腰正信 石川光忠 徳川仙千代、義直 |
親 | 父:志水宗清、母:龍雲院(東竹甲清娘) |
家族 | 妹:隆正院松譽(誉)貞春(山下氏勝妻) |
お亀の方︵おかめのかた︶は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての日本の女性。徳川家康の側室[1]。初代尾張藩藩主・尾張徳川家の祖・徳川義直の生母[1]。家康没後は相応院と称した[1]。
生涯[編集]
石清水八幡宮の祠官・志水宗清の娘[1][2]。母は東竹甲清の娘・龍雲院。 はじめ竹腰正時に嫁ぎ、竹腰正信を生む[1]。夫と死別後、奥勤めに入る。その後、石川光元の側室となり石川光忠を生む。 光元と離縁後の文禄3年︵1594年︶、21歳の時、家康に見初められ側室となる[1]。 文禄4年︵1595年︶に仙千代を生む。仙千代は、慶長5年︵1600年︶3月、6歳で夭折する[1]。仙千代の菩提を弔うため、高岳院︵現・名古屋市東区︶を建立した[1]。 同年11月、五郎太丸︵後の徳川義直︶を生む[1]。家康の死後、相応院と名乗り、義直のいる名古屋城で暮らした[1]。 慶長18年︵1613年︶、浅野幸長が嗣子なく死去した際、その弟・長晟からの依頼で、家臣・山下氏勝とともに、長晟の家督相続に向けて関与した[3]。 寛永19年︵1642︶9月16日、死去[1]。69歳没[1]。戒名は相応院殿信誉公安大禅定尼[1]。没後[編集]
寛永20年︵1643年︶、義直は、お亀の方の菩提を弔うため宝亀山相応寺︵現・名古屋市千種区城山町︶を建立した[4][5]。家族[編集]
妹︵隆正院松譽貞春︶は、家臣・山下氏勝に嫁いだ[6]。登場作品[編集]
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
(一)^ abcdefghijklm“生母お亀の方”. 浄土宗 宝亀山 相応寺. 2023年8月19日閲覧。
(二)^ 愛知県郷土資料刊行会 1980, p. 33.
(三)^ 愛知県郷土資料刊行会 1980, p. 236.
(四)^ “相応院画像徳川義直画賛”. 徳川美術館. 2022年3月8日閲覧。
(五)^ “相応寺(寶亀山ほうきさん公安院相応寺)”. 名古屋市千種区役所 (2015年12月14日). 2023年8月19日閲覧。
(六)^ 愛知県郷土資料刊行会 1980, pp. 235–238.