アッシャー・ブラウン・デュランド
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アッシャー・ブラウン・デュランド Asher Brown Durand | |
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![]() (撮影) Abraham Bogardus | |
誕生日 | 1796年8月21日 |
出生地 |
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死没年 | 1886年9月17日 |
死没地 |
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アッシャー・ブラウン・デュランド︵Asher Brown Durand、1796年8月21日 - 1886年9月17日︶はアメリカ合衆国の版画家、画家である。ロマン派の影響を受けたアメリカの風景画家のグループ、ハドソン・リバー派の画家の一人である。
略歴[編集]
ニュージャージー州、エセックス郡のメープルウッドに生まれた。父親は時計職人、銀細工師で11人兄弟の8番目の子供であった。1812年から版画業者の見習いをした後[1]、共同経営者となり、ニューヨークの支店を任された。1823年にジョン・トランブルの﹃アメリカ独立宣言﹄を版画にして出版して、その版画技術が評判となった。1825年にニューヨーク絵画協会︵New York Drawing Associatio︶の設立に寄与し、この組織はナショナル・アカデミー・オブ・デザイン︵National Academy of Design︶に発展し、1845年から1861年の間、デュランドはナショナル・アカデミー・オブ・デザインの校長︵会長︶を務めた。 兄のサイラス・デュランド︵Cyrus Durand:1787–1868︶と印刷業の会社︵A. B. & C. Durand &Co︶をつくり、切手などの版の製作をした[2][3]。 1830年頃から、パトロンのリード︵Luman Reed︶に勧められて、関心を版画から油絵に移した。1837年に友人となったトマス・コールとアディロンダック山地のシクルーン湖へのスケッチ旅行を行い、その後は風景画に集中した。代表作の一つの﹁気の合う者﹂(kindred spirits)はキャッツキル山地の風景の中に、コールと詩人のウィリアム・カレン・ブライアントを描いた。コールの死の後、ブライアントに贈られたものであった。作品[編集]
版画作品[編集]
油絵[編集]
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「気の合う者」(kindred spirits)
クリスタル・ブリッジーズ・アメリカン・アート美術館蔵 -
座礁した船 (1844)
ナショナル・ギャラリー (ワシントン)蔵 -
猟師 (1846)
アリゾナ州立大学美術館 蔵