アレクサンドル・ボロディン

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アレクサンドル・ポルフィーリエヴィチ・ボロディン
Алекса́ндр Порфи́рьевич Бороди́н
基本情報
生誕 1833年11月12日 (グレゴリオ暦)
ロシア帝国の旗 ロシア帝国 サンクトペテルブルク
死没 (1887-02-27) 1887年2月27日(53歳没) (グレゴリオ暦)
ロシア帝国の旗 ロシア帝国 サンクトペテルブルク
学歴 サンクトペテルブルク大学医学部
ジャンル 国民楽派
職業 作曲家

Alexander Porfiryevich Borodin, Алекса́ндр Порфи́рьевич Бороди́н RU-Alexander Porfiryevich Borodin.ogg , 18331031/1112 - 1887215/2275

[]


[1]6225

24[2]26

186318691 調2 調1880

1869

1887


[]


22 調 調3 調 調

512西

19451954

主要作品[編集]

オペラ[編集]

管弦楽曲[編集]

室内楽曲[編集]

ピアノ曲[編集]

  • 小組曲(全7曲)
  • 変化のない主題によるパラフレーズ

合唱曲[編集]

  • キリルに栄光あれ、メソディウスに栄あれ(未完)

歌曲[編集]

  • 慈悲深い神
  • 間違った音符

脚注[編集]

  1. ^ タヴァディは、日本では王子公爵と訳されることがあるが、正確ではない。大領主というニュアンスが最も近い。グルジアの貴族制度タヴァディ・アズナウリ制度に、貴族つまり領主一般を意味するアズナウリ、大領主を意味するタヴァディがある。グルジア王国が複数の王国と複数の公国に分裂した15世紀以降も各国の君主家は引き続きバクラチオニ家であり、19世紀初頭まで存在したイメレティ王国も同様である。また、イメレティ王国はグルジア王国から分裂直後から、長らくオスマン帝国の侵略をたびたび受け、ロシア帝国に1810年に占領・併合された頃は実質的にオスマン帝国の支配下にあった。ちなみに、タヴァディの権限の強さは各王国・時代により異なる。
  2. ^ 初めて会った時の印象について、「まさに嘴の黄色い青二才ではあったが、極めて優雅で全く非の打ち所のない青年士官であった。…彼はピアノの前に座ると、態とらしく両手を上げて演奏を始めた。優雅に、しかも繊細に…。」と語ったと言われる(DEAGOSTINI刊‘The Classic Collection’第99号)

外部リンク[編集]