ジョージア (国)
- ジョージア
- საქართველო
-
(国旗) (国章) - 国の標語:ძალა ერთობაშია
(ジョージア語: 力は団結にあり) - 国歌:თავისუფლება(グルジア語)
タヴィスプレバ(自由) -
公用語 ジョージア語 首都 トビリシ 最大の都市 トビリシ 独立
- 日付ソビエト連邦から
1991年4月9日通貨 ラリ(GEL) 時間帯 UTC+4 (DST:なし) ISO 3166-1 GE / GEO ccTLD .ge 国際電話番号 995 - アブハジアと南オセチアを抜いた人口(2012年)は4,054,382人、面積57,200km2、人口密度70人/km2となる。
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概要[編集]
ジョージアはコーカサス山脈の南麓、黒海の東岸にあたる。古来から数多くの民族が行き交う交通の要衝であり、幾度もの他民族支配にさらされる地にありながらキリスト教信仰をはじめとする伝統文化を守り通してきた。一方で、温暖な気候を利用したワイン︵グルジアワイン︶生産の盛んな国としても知られている。 ジョージアは、かつてソ連の構成国の一つであったが、1991年に独立を果たした。南オセチアとアブハジアの2地域が事実上の独立状態となっており、ロシアなど一部の国から国家承認を受けている。中央部のゴリは、旧ソビエト連邦の独裁者ヨシフ・スターリンの出身地でもある。 一方でロシア帝国とその後に成立したソ連の支配が長く続いたことから、独立後は様々な方面でロシアとの対立路線を取ることが多い。1997年にはウクライナの呼びかけに応じてアゼルバイジャンやモルドバとともにGUAMを結成し、2005年にはウクライナと共に民主的選択共同体︵CDC︶を発足して加盟、2009年には独立国家共同体︵CIS︶を脱退した。 1999年から欧州評議会のメンバーである。 なお、本項目では2015年4月以前の国家名称については﹁グルジア﹂、それ以後については﹁ジョージア﹂と表記する。また﹁グルジア語﹂﹁グルジア紛争︵南オセチア紛争︶﹂など、既に完全に定着したものについては﹁グルジア﹂を使用することとする。国名[編集]
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歴史[編集]
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原始・古代[編集]
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中世・近世[編集]
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ロシア帝国時代[編集]
18世紀後半、東グルジアのカヘティ王国にエレクレ2世が現れ、サファヴィー朝後に興起したアフシャール朝を撃退し、父のカルトリ王ティムラズ2世死去後はその領域をも継承して、1762年、トビリシに都を置くカルトリ・カヘティ王国を建てた[38][42]。エレクレはアルメニア商人たちと提携して王国の殖産興業に尽力したため、その経済は大いに発展した[41][58]。1768年に始まった露土戦争ではエレクレはロシア帝国側で戦った。クタイシを首都とする西部のイメレティ王国もこの戦争ではロシア側に立ち、ソロモン1世治世下の1779年にはオスマン支配から脱却することに成功した[38]。 エレクレ2世は、北カフカスからのレズギン人の襲来やペルシア・トルコの両勢力から自国を守るため、同じ正教を奉ずる北の大国であるロシア帝国との同盟を目指し、1783年には女帝エカチェリーナ2世との間にギオルギエフスク条約を結んでロシアの保護国となることを認めた[38]。しかし、ロシアはこの条約を守らず、エレクレ2世は結局、新興のガージャール朝からの猛攻を単独で受けざるを得なくなった。1795年、グルジアは大敗北を喫してトビリシは略奪を受け、経済成長の成果は無に帰した[38][58]。エレクレの病弱な後継者ギオルギ12世は無条件で自国をロシアの保護に委ねることを決し、1800年12月に死去した[38]。 1801年1月、ロシア皇帝パーヴェル1世はカルトリ・カヘティ王国を廃して東グルジアの併合を宣言し、同年9月、新帝アレクサンドル1世によって併合が実行に移された[38]。カフカス総督府をトビリシに設け、グルジアはロシアの軍政長官の支配下に置かれた[49][60]。このとき、カルトリ・カヘティ各地では人民の叛乱が起こった[38][49]。カフカス総督は、帝政ロシアの他の植民地総督以上の権限を有し、グルジアには内地同様、県︵グベールニヤ︶を置いて県知事などには現地の有力者を充てた[60]。ロシア帝国は19世紀初頭、ザカフカス︵南カフカス︶の強固な支配とペルシアの背後にあるイギリスへの対抗のため、グルジア軍道を建設した[61][出典無効]︵英露の抗争は﹁グレート・ゲーム﹂を参照︶。 ロシアは1810年には西グルジアのイメレティをも併合し、グルジア主要部は総じて簡単にロシアの一部になってしまった[62][出典無効]。ロシアはまた、1828年にはアルメニアを併合、さらに同年、ペルシアとの戦争の結果、アゼルバイジャン北部を支配下に置き、1829年にはグルジアのグリアを併合した[38][62][出典無効]。グリアではロシア政府によるジャガイモの強制栽培に端を発した1841年グリア反乱が起こっている。さらに、ミングレア︵旧サメネグロ︶、スヴァネティ、アブハジアがそれぞれ1857年、1858年、1867年に完全にロシアの版図となった[38]。 ロシア側からみれば、南カフカスよりも北カフカスのチェチェン人、レズギン人などのイスラーム系山岳民族の方が強敵であった[62][出典無効][63][出典無効]。結局ロシアは、北カフカスを戦場とするコーカサス戦争︵カフカス戦争︶に1816年から1861年まで、45年の歳月を費やしている[62][出典無効]。この戦争に対し、グルジアの軍隊と人々はロシア側で参加した[64]。これについては、当時のグルジア人たちがロシア人たちと共通の信仰︵キリスト教︶を持っていたばかりでなく、彼らがロシア統治に積極面を感じていたという指摘がある[64]。すなわち、ロシアへの併合はムスリムの諸勢力の攻勢から自身を守り、自らロシア政府の主導するカフカスの再キリスト教化に参与できたのである[44]。 一方、グルジア正教会は1811年、ロシア正教会に吸収され、その組織的独立を失った[44][46]。グルジア教会のカトリコス︵総主教︶は廃され、代わりにロシアの宗務院に属する大主教が置かれた[46]。これは、ロシア教会とグルジア教会の間には教義上の差異がないとみなされたためであったが、後者には長い歴史を持つグルジア語の文語と独特の典礼があり、その聖職者・信者にとってグルジア語の禁止とロシア語の強制は大きな苦痛であった[44]。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/5d/Karte_des_Kaukasischen_Isthmus_-_Entworfen_und_gezeichnet_von_J-Grassl_-_1856.jpg/300px-Karte_des_Kaukasischen_Isthmus_-_Entworfen_und_gezeichnet_von_J-Grassl_-_1856.jpg)
ロシア帝国からの独立とソ連への加盟、ソ連時代[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/7e/Red_Army_in_Tbilisi_Feb_25_1921.jpg/220px-Red_Army_in_Tbilisi_Feb_25_1921.jpg)
ソ連崩壊後[編集]
1989年、東西冷戦が緩和する一方でソ連のペレストロイカ路線が行き詰まりを見せると、ソ連地上軍が反ソ運動を弾圧したトビリシ事件を大きな転機として、ソ連後期からは抑えられていた民族的な問題が表面化した。1990年11月、グルジア・ソビエト社会主義共和国はグルジア共和国に改名され、1991年4月9日に独立宣言を行い、5月にはズヴィアド・ガムサフルディアが大統領に選出。これは同年12月25日付でのソ連邦解体により実効性を持ったものの、独立後も多くの閣僚はソ連旧共産党員であったことや強権的な統治が行われたために、政局不安は改善されず治安も悪化し内戦状態に至った。その後、アブハジア︵アブハジア紛争、アブハジア戦争︶や南オセチア︵南オセチア紛争 (2008年)︶やアジャリア自治共和国 (en:2004 Adjara crisis) で分離独立運動が起き、現在は南オセチアとアブハジアが事実上の独立状態となっている︵アジャリア自治共和国は2004年にジョージア中央政府の支配下に置かれて自治権剥奪︶。シェワルナゼ政権[編集]
1991年11月22日、グルジア国家警備隊がクーデターを起こし、政府軍と交戦[70]。1992年1月6日、ズヴィアド・ガムサフルディア大統領は首都トビリシを脱出し[70]、代わって軍事評議会がグルジアを統治した。その後、軍事評議会の招きによりエドゥアルド・シェワルナゼ元ソ連外相が帰国し、同年3月10日に国家評議会が創設されると、シェワルナゼが議長に選出された[70]。同年10月11日、最高会議議長の直接選挙が実施され、シェワルナゼが96%の得票により当選[71]。10月17日、国家評議会は自主解散し、統治機能は最高会議に引き継がれることとなった[72]。1992年7月31日、国際連合に加盟した。その後は2003年まで、シェワルナゼが最高権力者であった。バラ革命[編集]
2003年11月2日の議会選挙の開票には出口調査などによって不正の疑惑が指摘され、アメリカ合衆国が非難を表明していたが、11月22日になって、選挙に基く新しい議会が召集された。これに対し、反対派の議員はボイコットした。議会前には2万5,000人の反対派市民が集結していたが、開会の辞を読み上げられる最中、これらの市民は議場に乱入した。シェワルナゼ大統領は議会から逃亡し、11月23日には大統領を辞任した。代わって、野党﹁ブルジャナゼ・民主主義者﹂の党首であるニノ・ブルジャナゼが暫定大統領に就任した。ブルジャナゼ暫定大統領は、従来の閣僚︵ナルチェマシュヴィリ内相、ジョルベナゼ国務相、ゴジャシュヴィリ財務相、メナガリシュヴィリ外相など︶を一掃した。サアカシュヴィリ政権[編集]
ロシア-グルジア戦争[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/3f/2008_South_Ossetia_war_en.svg/300px-2008_South_Ossetia_war_en.svg.png)
サアカシュヴィリ政権の終焉とマルグヴェラシヴィリ政権[編集]
2012年10月の選挙の結果、ロシアとの関係改善を目指す野党連合﹁グルジアの夢–民主主義グルジア﹂が勝利し、同連合代表で実業家のビジナ・イヴァニシヴィリが首相に指名された。そして、2013年10月27日に行われた大統領選挙で、﹁グルジアの夢﹂が推薦したギオルギ・マルグヴェラシヴィリ候補が圧勝し、サアカシュヴィリ大統領の後継者のダヴィト・バクラゼ候補は惨敗した[73]。 これにより、強固な反露・親欧米政策を推し進めてきたサアカシュヴィリ体制は終焉を迎えたが、欧州連合︵EU︶加盟を目指す方向性は変わっておらず、2014年6月27日、EUと連合協定を締結し[74][75][76]、2016年7月1日、正式に連合協定を発効した[77]。 2018年にはフランス生まれの元フランス外務省職員で元はサアカシュヴィリの盟友で同政権で外相を務めたサロメ・ズラビシュヴィリが無所属で大統領に選出された。ウクライナ戦争以降、西側諸国と歩調を合わせて対露強硬路線を求める親欧米派のズラビシュヴィリ大統領に対して対露制裁に不参加と中立的立場を貫く与党との対立を引き起こしているが、大統領職は名誉職に過ぎず政治的な実権は無く現政権はサアカシュヴィリ政権の終焉以来続いている中立姿勢を堅持している。年譜[編集]
●4世紀 - キリスト教を国教化。 ●6世紀 - 10世紀 サーサーン朝ペルシア帝国、東ローマ帝国、イスラム帝国︵アラブ人︶の支配下となる。 ●11世紀 - バグラト朝成立。 ●13世紀 - 14世紀 タタール、ティムールによる侵攻。 ●16世紀 - 18世紀 西部がオスマン帝国、東部はサファヴィー朝ペルシアの支配下となる。 ●1783年 - ギオルギエフスク条約によりグルジア東部はロシア帝国の保護領となる。 ●1801年 - ロシア帝国、グルジア東部を併合。ロシアはその後、併合を繰り返していく。 ●1878年 - 露土戦争の結果、アジャリアがロシア帝国に併合。現在のグルジアにあたる領域がすべてロシア帝国の版図に入る。 ●1918年5月 - 前年のロシア革命を受けグルジア独立宣言︵グルジア民主共和国︶。 ●1922年 - アルメニア、アゼルバイジャンとともにザカフカース・ソビエト連邦社会主義共和国を形成、ソビエト連邦に加盟。 ●1936年 - スターリン憲法により、独立した連邦構成共和国となる。 ●1989年8月 - 南オセチア紛争始まる。 ●1990年8月 - アブハジア紛争始まる。 ●1991年4月9日 - 独立宣言[4]。ソビエト連邦の崩壊により12月に独立。 ●1992年 ●1月 - ズヴィアド・ガムサフルディア大統領が失脚。 ●3月 - エドゥアルド・シェワルナゼが国家評議会議長に就任。 ●10月 - エドゥアルド・シェワルナゼが最高会議議長に就任。 ●1995年11月 - エドゥアルド・シェワルナゼが大統領に就任。 ●2000年4月 - エドゥアルド・シェワルナゼ大統領再選。 ●2002年8月 - チェチェン共和国武装勢力に加わっていた日本人義勇兵︵元自衛隊員︶がグルジア領内で拘束されたとの報道。 ●2003年11月23日 - バラ革命、エドゥアルド・シェワルナゼ大統領が辞任、ニノ・ブルジャナゼ暫定政権発足。 ●2004年 ●1月4日 - 大統領選挙を実施、ミヘイル・サアカシュヴィリが圧勝。 ●1月25日 - ミヘイル・サアカシュヴィリが大統領に就任。 ●2006年 ●3月27日 - ロシア政府、グルジア産ワインの輸入禁止を表明、親欧米色を強めるグルジア政府に対する圧力ともいわれる。 ●5月23日 - ウクライナの首都キーウ︵キエフ︶においてGUAMの設立が宣言され、グルジアも加盟を表明。 ●7月13日 - ロシアを通過せずに旧ソ連圏産の石油を輸出することが可能で、グルジア領内も通過するBTCパイプライン開通。 ●7月25日 - グルジア軍が、独立を主張しているアブハジアに軍事攻撃を仕掛ける。アブハジア側とグルジア側にまたがるコドリ渓谷での26日までの戦闘で、現地を支配していたアブハジア系民兵を追い出した。グルジア側は、この戦闘で攻撃ヘリ数機、兵員輸送トラック34台、戦闘用車両18台を投入した。この戦闘で民間人1人が死亡、数人が負傷、民兵25人が捕虜となった。 ●9月27日 - グルジア治安当局が、スパイ行為を行ったとしてロシア軍将校ら十数人を拘束。ロシア外務省は28日、抗議のため駐グルジア大使を召還。 ●10月13日 - 国連安保理、アブハジアに対する﹁グルジア政府の挑発的行動﹂を非難する決議1716[1]を採択。 ●2007年 ●8月7日 - グルジア北部で国籍不明の軍用機がミサイルを投下。グルジア政府は﹁ロシアの恫喝﹂と非難するが、﹁自作自演﹂ともいわれる。以前にも﹁グルジア領内への空爆﹂を自作自演した疑惑[2]が存在する。 ●9月27日 - 以前からタカ派として国民からの人気が高かったイラクリ・オクルアシヴィリ元国防相が拘束される。大統領から反政府的とされるビジネスマンの殺害を命じられたと﹁告白﹂したことが原因とみられている。28日には元国防相の身柄拘束に反対するデモがトビリシで行われる。この件以降、グルジア各地での反政府デモが活発化。 ●11月1日 - サアカシュヴィリ大統領の辞任や議会選挙の前倒しなどを求めるデモがトビリシなどで行われる。7日に武力鎮圧されるまで、グルジア各地で断続的にデモが発生。 ●11月7日 - サアカシュヴィリ大統領、非常事態宣言発令。当初は2週間ほど継続される予定だったが、16日に解除。 ●11月14日 - グルジア政府が、反政府的報道を行ったとして野党系テレビ局﹁Imedi﹂の放送免許を停止。同局は11月7日、グルジア政府特殊部隊の強襲を受け、スタジオ・放送機材などを破壊されていた。免許停止自体は12月5日に解除されるが、放送再開には時間がかかるとの見方もある。 ●11月25日 - サアカシュヴィリ大統領が、野党側が求めていた議会選の前倒しを拒否。代わりに大統領選の前倒しを行うことを表明し、立候補のため大統領職を辞任。大統領選は1月5日と決まるも、同日国会前では数万人が参加するデモが発生。11月7日の衝突以降、初の大規模デモとなる。 ●11月27日 - 事実上の国外追放処分を受けドイツに滞在していたオクルアシヴィリ元国防相が、ドイツ検察当局に拘束される。 ●2008年 ●8月8日 - 事実上の独立状態にあった南オセチアに侵攻。平和維持軍として駐留していたロシア軍に攻撃を加え、ロシアと戦闘状態に入る︵南オセチア紛争 (2008年)も参照︶。 ●8月10日 - 南オセチアから軍が退却。 ●8月12日 - 独立国家共同体︵CIS︶より脱退を発表。 ●8月29日 - ロシアと断交。政治[編集]
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/36/Irakli_Garibashvili_2013._2.jpg/220px-Irakli_Garibashvili_2013._2.jpg)
ジョージアは共和制国家であるが、1995年12月8日から2004年2月17日までの間、首相の規定はなく大統領が政府を組織していた。ただし、首相職に相当するものとして国務大臣が設置されていた。
行政[編集]
立法[編集]
ジョージア議会は一院制で、任期4年︵定数235名︶。その内、150議席が比例代表制で、85議席が小選挙区制である。2012年からは議会が行政官庁が集中する首都トビリシではなく西部の古都クタイシに置かれていたが、2019年に再度トビリシに戻された。 州知事と大都市の市長は、大統領による任命制である。政党[編集]
複数政党制であり、独立後から多くの政党の存在が認められている。司法[編集]
同国には最高裁判所と憲法裁判所があり、憲法裁判所には大統領の推薦に基づき議会によって選出された裁判官が存在する。
国際関係[編集]
ロシアとの対立[編集]
民族問題[編集]
こうした流れに加えて、ジョージア国内の民族問題も両国の対立に拍車をかけている。コーカサス地方は古くから多数の民族が入り乱れる不安定な地域であり、近代に成立したにすぎないジョージア人という民族意識はいまだ不安定で、ジョージア国民の間でも地方対立が絶えない状況下にある。最大勢力であるジョージア人︵カルトヴェリ人︶の中でもミングレリア人︵ミングレリア︶、スヴァン人︵スヴァネティ︶、ラズ人やアジャリア人︵アジャリア︶は民族意識が強くあり、ジョージア人とは区別する場合もある。 また、カルトヴェリ人とはまったく異なる北西コーカサス語族系のアブハズ人︵アブハジア︶、イラン系民族のオセット人︵南オセチア︶、アルメニア人︵ジャワヘティア︶、アゼルバイジャン人、チェチェン人など多数の非ジョージア民族を国内に抱えている[79]。ジョージア政府の反露政策はカルトヴェリ人民族主義と密接に結びついており[80]、これらの地方民族への弾圧が強まっている[81]。これらの国の中には、言語の保護など多民族共生の向きが強いロシアの庇護を受けることで自民族の文化を守ろうとする動きがあり、ロシアもジョージアへの牽制から積極的に支援する立場にある。とりわけ南オセチアでは、北オセチアを統治するロシアへの併合を求める運動が活発化している︵ただしロシア政府は国家承認はしつつも、併合は望まないとしている︶。対するジョージアは自民族中心主義︵エスノセントリズム︶・反ロシア路線の双方から一連の動きに激しく反発した。 2006年9月27日・28日には、ジョージア国内に駐在していたロシア軍将校6名が、ジョージア軍によりスパイ容疑で拘束された。ロシア政府が抗議としてジョージアに対するビザ発給停止や国境線の封鎖などの報復をとる事態が発生している。さらに2008年には、ジョージア軍が南オセチアに展開するロシア軍主体の停戦監視部隊に攻撃を仕掛け、兵器を強奪する行為を起こした。ジョージア政府は﹁ロシア軍の停戦部隊は独立派を支援しており公平ではなく、EU部隊との交代を行うべき﹂と発言しているが、ロシア軍駐留に関しては当のEU側も賛同する意向を示している。南オセチア紛争[編集]
2022年ロシアのウクライナ侵攻[編集]
2022年ロシアのウクライナ侵攻では、ジョージア世論でウクライナに同情的でロシアへの反感が強まっているが、一方でジョージア政府は対ロシア経済制裁には参加せず、経済制裁やロシア政府の言論統制などを嫌ってロシアから出国する人々をビザなしで受け入れている[82]。こうしたロシアに融和的な姿勢をとる与党グルジアの夢=民主グルジアの創設者は、ロシア政府と親しいオリガルヒのビジナ・イヴァニシヴィリで、現在もジョージアの政治に大きな影響力を持っている[83]。 ロシア人の流入が続くなど、ロシアとの交流が活発になるにつれて、2000年以来取得が必須であったロシアのビザが免除され、2019年以来運航停止していたロシアとの直行便も2023年5月に再開している[84]。これにはロシアとの直行便を停止している西側諸国やサアカシュヴィリ政権で外相を務めたサロメ・ズラビシュヴィリ大統領を中心とする親欧米派が強く反対しておりデモなどが起きている。また、ジョージア軍団に代表されるように一部のジョージア国民は義勇兵としてウクライナでの戦闘に参加している。日本との関係[編集]
国家安全保障[編集]
現在、同国軍は陸軍と特殊作戦軍、国家警備隊で構成されている。
以前は海軍及び空軍も存在していたが、上述の紛争によって壊滅した事から国境警察ならび沿岸警備隊と陸軍へ編入される形で統合している為、どちらも現存しない。
地理[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/6e/Gg-map-ja.png/350px-Gg-map-ja.png)
地理概況・地勢[編集]
東経40 - 47度、北緯41 - 44度に位置するジョージアは、コーカサス山脈を中心に国土の大部分が山岳地帯である。最高峰はシュハラ山︵標高5,201メートル︶。200キロメートル離れたカズベギ山︵標高5,074メートル︶が第2の高山で、唯一の火山である。この間に2,100もの氷河がある。コーカサス山脈に沿ってロシア連邦と723キロメートルの国境を接し、クラスノダール地方、カラチャイ・チェルケス共和国、カバルダ・バルカル共和国、北オセチア共和国、イングーシ共和国、チェチェン共和国などロシアの民族共和国と接する。そのためジョージアは古くから紛争の影響を受けやすく、アブハジア自治共和国、南オセチア自治州、パンキシ渓谷など中央政府の支配権の及ばない地域がある︵下表参照︶。特にチェチェン共和国と接するパンキシ渓谷は、チェチェン人ゲリラの巣窟となり中央政府の統治が行き届かない時期も存在した[87]。 ジョージアは中部のリヒ山脈によって東西に分けられ、東部は歴史的にイベリアと呼ばれた一方、西部はコルキスと呼ばれていた。また山脈は、北部地域のスヴァネティを分けている。またこれらの山脈を源としてリオニ川やクラ川︵ムトゥクヴァリ︶などの主要な河川がある。クラ川の源流域やチョロフ川の流れる一帯が歴史的な西南ジョージア︵メスヘティ︶であり、統一王朝発祥の地として知られる。クラ河岸に古都ムツヘタ、現首都トビリシなど、東ジョージアの諸都市が発展した。 アブハジアにあるボロニア洞窟は世界で最も深く、深度2,140メートルに達する。気候[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f6/Svaneti%2C_georgia.jpg/300px-Svaneti%2C_georgia.jpg)
各州・各共和国の概況[編集]
アブハジアと南オセチアについては、内戦の結果、事実上ジョージアより独立しており、2015年10月時点で4か国︵ロシア連邦、ベネズエラ、ニカラグア、ナウル︶によってそれぞれ、主権国家﹁アブハジア共和国﹂﹁南オセチア共和国﹂として承認されている[43]。政府名 | 首都 | 面積 | 人口 | 民族 | 宗教 | 2016年現況 |
---|---|---|---|---|---|---|
![]() ジョージア |
トビリシ | 7.0万km2 | 430.5万人 | — | ||
![]() アジャリア自治共和国 |
バトゥミ | 2,900km2 | 39.3万人 |
|
イスラーム | ジョージアの直轄統治 |
![]() アブハジア自治共和国 |
スフミ | 8,665km2 | 24.0万人 |
|
キリスト教、スンナ派イスラーム | 事実上ジョージアより独立 (4カ国が国家承認) |
![]() 南オセチア自治州 |
ツヒンヴァリ | 3,900km2 | 5.1万人 |
|
オセット人はキリスト教(正教)主体 | 事実上ジョージアより独立 (4カ国が国家承認) |
環境[編集]
地方行政区分[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/48/View_of_Tbilisi_from_Mt_Mtatsminda_%281%29.jpg/220px-View_of_Tbilisi_from_Mt_Mtatsminda_%281%29.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/91/Georgia_high_detail_map.png/220px-Georgia_high_detail_map.png)
主要都市[編集]
経済[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a1/Baku_pipelines.svg/220px-Baku_pipelines.svg.png)
交通[編集]
道路[編集]
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鉄道[編集]
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航空[編集]
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国民[編集]
民族[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/ff/Caucasus-ethnic_ja.svg/200px-Caucasus-ethnic_ja.svg.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/6a/Kartvelian_languages.svg/200px-Kartvelian_languages.svg.png)
言語[編集]
公用語はカルトヴェリ語族のグルジア語︵71%︶で、次いでロシア語︵9%︶、アルメニア語︵7%︶、アゼルバイジャン語︵6%︶となっている。その他、アブハズ語、オセット語、グルジン語なども使われている。また、統計上では同じカルトヴェリ語族としてグルジア語話者に含まれることも多いスヴァン語、メグレル語、ラズ語も使われているなど、多言語国家となっている。 反露感情が強い国民とされるが、実際にはソ連時代に普及したロシア語は広範に使われており、独立以降のグルジア語統制への反発などから一部地域では異民族間の共通語として機能している。宗教[編集]
宗教比率は、キリスト教グルジア(ジョージア)正教会に所属する正教徒が75%、イスラム教徒(ほとんどがスンナ派)が11%[要出典]。
婚姻[編集]
婚姻は、改姓しない夫婦別姓、どちらかの配偶者の姓に統一する(夫婦同姓)、複合姓を用いる、のいずれの選択も可能である[92]。
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教育[編集]
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保健[編集]
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医療[編集]
治安[編集]
ジョージアは、米国の情報誌『グローバル・ファイナンス』が発表した「最も治安の良い国ランキング」によると、91位となっている[94]。上述の南オセチア・アブハジア及びその周辺地域における領域問題の事情から同地域エリアではジョージア政府の統治が及んでおらず、不測の事態が発生する恐れが指摘されている。最近では観光客を狙った犯罪が多発し易くなっており、物乞いする子供による窃盗[95]や声掛けによる強盗事件が発生している[96]ことからジョージアを訪れる外国人へ注意が呼び掛けられている。
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人権[編集]
2005年に欧州民族的少数者保護枠組条約(FCPNM)を批准している。これに対しNGOの公差国際財団は、2008年に「FCPNMのいくつかの条項がジョージア国議会による完全な実施から免除されている」と指摘しており、具体的には「文化・教育・行政上の問題におけるマイノリティの言語での完全な表現に関する規定が侵害された」と主張している[97]。
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メディア[編集]
文化[編集]
食文化[編集]
ワイン[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/20/Georgian_wine_and_spirits_factory_in_Telavi%2C_Georgia.jpg/220px-Georgian_wine_and_spirits_factory_in_Telavi%2C_Georgia.jpg)
文学[編集]
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音楽[編集]
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芸術[編集]
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映画[編集]
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建築[編集]
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世界遺産[編集]
ジョージア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が3件存在する。
- ムツヘタの歴史的建造物群 -(1994年)
- ゲラティ修道院 -(1994年、2017年縮減)
- 2017年まではバグラティ大聖堂も構成資産だった。
- 上スヴァネティ -(1996年)
祝祭日[編集]
日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
---|---|---|---|
1月7日 | クリスマス | グルジア(ジョージア)正教会のクリスマス、ユリウス暦の12月25日。 | |
3月3日 | 母性の日 | ||
3月8日 | 国際女性デー | ||
4月9日 | 国民団結の日 | 1989年にトビリシで反ソ暴動が発生した日 | |
5月9日 | 戦勝記念日 | 独ソ戦でのドイツ降伏を記念。 | |
5月12日 | 聖アンドレイの日 | 伝承によれば使徒聖アンデレがキリスト教を最初にジョージアに伝えたとされる。 | |
5月26日 | 独立記念日 | 1918年に独立宣言をした日 | |
8月28日 | 生神女就寝祭 | ユリウス暦8月15日 | |
10月14日 | スヴェティツホヴェリ教会の日 | ||
11月23日 | 聖ゲオルギオスの日 | 「啓蒙者」ゲオルギオスはジョージアの守護聖人。 |
スポーツ[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/84/Georgia_vs_Romania_2011_RWC_%283%29.jpg/220px-Georgia_vs_Romania_2011_RWC_%283%29.jpg)
サッカー[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/21/Kakhaber_Kaladze.jpg/160px-Kakhaber_Kaladze.jpg)
バスケットボール[編集]
バスケットボールもまた、ジョージアにおいて著名なスポーツの一つであった。オタル・コルキア、ミハイル・コルキア、ズラブ・サカンデリゼ、レヴァン・モセシュヴィリといった旧ソビエト連邦代表の著名な選手らがジョージアに所属した。ジョージアのBCディナモ・トビリシは、1962年にヨーロッパ最高峰リーグFIBA欧州チャンピオンズカップで優勝した。 これまでに5人のNBA選手を輩出しており、ウラジミール・ステパニア、ジェイク・サカリディス、ニコロス・ツキティシュビリ、トルニケ・シェンゲリア、そしてゴールデンステート・ウォリアーズ所属のザザ・パチュリア。その他の著名なバスケットボール選手としては、ユーロリーグで2度の優勝を果たしたギオルギ・シェルマディニや、ユーロリーグ所属のマヌチャル・マルコイシュヴィリ、ヴィクトル・サニキゼがいる。また、バスケットボール男子代表は2011年以降、3大会連続で欧州選手権の予選を突破している。レスリング[編集]
レスリングは、ジョージアにおいて歴史的に重要なスポーツの地位にあり続けている。歴史家の中には、グレコローマンレスリングには多くのジョージア的要素が組み込まれていると考える人もいる[104]。ジョージアでは、多くのレスリング・スタイルが普及しており、もっとも普及したスタイルのひとつとしてはカヘティ・スタイルが挙げられる。今日ではあまり行われていないスタイルも、過去には数多く存在していた。たとえばジョージア北東部のヘヴスレティ地方には、異なる3種類のレスリング・スタイルが存在している。モータースポーツ[編集]
コーカサス地方で最初かつ唯一のサーキット競技は、ジョージアにて行われており、ルスタヴィ国際レース場は1978年に竣工した。その後、2,000万ドルの費用をかけて改築し[105]、2012年に再オープンしている。サーキットはFIA分類でグレード2の要件を満たし、現在はレジェンド・カー・レーシングシリーズと、フォーミュラ・アルファ大会を開催している[106]。著名な出身者[編集]
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
和書 ●二宮書店編集部 編﹁ジョージア﹂﹃データブック・オブ・ザ・ワールド2016年版﹄二宮書店、2016年1月。ISBN 978-4-8176-0399-9。 ●小松久男ら 編﹃中央ユーラシアを知る事典﹄平凡社、2005年4月。ISBN 4-582-12636-7。 ●北川誠一・前田弘毅・廣瀬陽子・吉村貴之 編﹃コーカサスを知るための60章﹄明石書店、2006年4月。ISBN 4-7503-2301-2。 ●﹃国際情報大事典 PASPO﹄学習研究社、1992年7月。ISBN 4-05-106027-6。 ●池田嘉郎 著﹁グルジア︵Georgia︶﹂、山川出版社編集部 編﹃世界各国便覧﹄山川出版社︿新版世界各国史28﹀、2009年7月。ISBN 978-4-634-41580-5。 ●北川誠一 著﹁グルジア正教会﹂、山内昌之・木村俊一[要曖昧さ回避]・杉山正明監修 編﹃週刊朝日百科21カフカス︵グルジア、アルメニア︶﹄朝日新聞社、2006年3月。 ●北川誠一、高橋清治 著﹁グルジア﹂、平凡社 編﹃世界大百科事典第8巻﹄平凡社、1988年3月。ISBN 4-582-02200-6。 ●馬場悠男﹁ドマニシ遺跡﹂﹃知恵蔵2007﹄朝日新聞社、2006年10月。ISBN 978-4023900073。 ●デヴィッド・マーシャル・ラング 著、菅原崇光 訳﹁グルジア:歴史﹂、フランク・B・ギブニー 編﹃ブリタニカ国際大百科事典﹄ティビーエス・ブリタニカ、1973年3月。 ●アブラハム・コンスタンティン・ムラジャ・ドーソン 著、佐口透 訳﹃モンゴル帝国史1﹄平凡社︿東洋文庫﹀、1968年3月。 ●アブラハム・コンスタンティン・ムラジャ・ドーソン 著、佐口透 訳﹃モンゴル帝国史2﹄平凡社︿東洋文庫﹀、1968年12月。 ●﹁バグラチ大聖堂とゲラチ修道院﹂﹃地球紀行世界遺産の旅﹄小学館、1999年10月。 洋書 ●PETER JACKSON and Lockhart - THE CAMBRIDGE HISTORY OF IRAN, vol.6. 雑誌論文など ●前田弘毅﹁サファヴィー朝期のグルジア語史料︵世界史の研究 No.222︶﹂﹃歴史と地理﹄第631号、山川出版社、2010年2月、25-32頁、NAID 40018278929。関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 政府
- 日本政府
- “ジョージア”. 外務省. 2016年5月12日閲覧。
- 在ジョージア日本国大使館(日本語)(グルジア語)(英語)
- 観光
- ジョージア政府観光局 (英語)(グルジア語)(アラビア語)
- ジョージアなび(ジョージア情報・観光ガイド)
- その他
- 『ジョージア(旧グルジア)』 - コトバンク
- 『ジョージア』 - コトバンク