アントワーヌ・ペヴスナー
アントワーヌ・ペヴスナー︵Antoine Pevsner, Антуан Певзнер, 1886年1月18日 - 1962年4月12日︶は、ロシア・アヴァンギャルドの美術家、画家[1]。ロシア構成主義の命名者の1人とされることがあり︵ただし、メドゥニツキー︵Константин Константинович Медуницкий, 1899年-1935年︶とステンベルグ兄弟を命名者とする文献もある︶、構成主義への初期からの参加者でもある。なお、ナウム・ガボは実弟。﹁ペヴスナー﹂は﹁ペヴスネル﹂︵ロシア語風には﹁ペヴズネル﹂︶とされることもある。
略歴[編集]
1909-1910年にかけてサンクトペテルブルクの﹁芸術アカデミー﹂で学ぶ。 1911年から1913年にかけてパリで美術を学ぶ。 一旦モスクワに戻ったが、1914年には第一次世界大戦の開始を受けてデンマークのコペンハーゲンに移り、1915年にはナウム・ガボとともにノルウェーのオスロに移る。 1917年の2月革命後、ガボとともにモスクワに戻り、モスクワで教師などをする︵スヴォマスなどで︶。 1920年にはガボとともに﹁リアリズム宣言﹂を発表。 1923年には、スターリンから逃れパリに移住。その後長らくパリにとどまる。 1931年には﹁アプストラクシオン・クレアシオン﹂に参加。 1948年には、ニューヨーク近代美術館において、﹁ガボ・ペヴスナー展﹂を開催。 パリ生活が長いためか、﹁アントワーヌ・ペヴスナー﹂というフランス風の呼び名が日本ではよく使われる。名前に関して[編集]
アントワーヌ・ペヴスナーの名前については、次の点が明確ではない。
(一)ファーストネームについては、﹁アントワーヌ︵アントゥアン︶﹂以外にも﹁アントン︵Anton, Антон︶﹂、﹁ナタン︵Natan, Натан︶﹂が挙げられる場合があるが、これらの関係は明らかではない。
(二)父称については、﹁Борисович﹂︵ボリソヴィチ︶、﹁Абрамович﹂︵アブラモヴィチ︶、﹁Беркович﹂︵ベルコヴィチ︶の3つが挙げられることがあるが、この3つの関係は明らかではない。