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オゴデイ・ウルス

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オゴデイ・ウルスの始祖オゴデイと息子達(『集史』「オゴデイ・カアン紀」パリ写本)

Ögödei ulus21315

Ögödei Khanate

131306[1]

mamlakat-i qāīdū'īaqa[2]

[]

14

[]


1206/(Yeke mongγol ulus)[3]

[4][5]

「ウルス」の特色[編集]


[1]

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[8]105[9]445945西447741[10]

14[11]

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2

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[29]

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[51][52]136114

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[]


1473/1474 - 1516/15171479/14803

144213681,2,3,4,5,6,7,8,9

構成[編集]

初期の4千人隊[編集]

千人隊長 ペルシア語表記(『集史』) 漢字表記(『秘史』) 功臣順位 部族 備考
イルゲイ(Ilügei) یلوکای نویان(īlūkāī nūyān) 亦魯該(yìlǔgāi) 5 ジャライル オゴデイの王傅(アタベク)を務めるが、息子はモンケ即位後に失脚する
デゲイ(Degei) دوکا(Dūkā) 迭該(diégāi) 11 ベスト 息子はコデン家のジビク・テムルに仕え、オゴデイ死後の政変を生き残る
ダイル(Dayir) دایر(Dāīr) 荅亦児(tàyìér) 36 コンゴタン インド方面のタンマチ初代司令官となり、遠征先で亡くなった
イレク・トエ(Ilek töe) ایلک توا(Yīlk tūā) スルドス スルドス部の枝族タムガリク部の出身で、『集史』にのみ登場する

モンケ・カアンによる分割時(1252年)のオゴデイ系7王家[編集]

王家 当主 遊牧地 投下領(戸数) 出自 備考
グユク王家 ホク大王(Hoqu) エミル・コバク 大名路(68593戸) グユクの末子 兄2名が処刑されたため、当主に就任
コデン王家 モンゲトゥ(Möngetü) 西涼府 東昌路(47741戸) コデンの次男 クビライとパスパの面会に尽力した
クチュ王家 ソセ(Söse) 潞州 汴梁路在城戸→睢州(5214戸) シレムンの末子 シレムンが処刑されたため、当主に就任
カラチャル王家 トタク(Totaq) エミル方面 未設定 カラチャルの息子 オゴデイ7子の中で唯一早い段階で断絶する
カシ王家 カイドゥ(Qaidu) カヤリク 汴梁路在城戸→蔡州(3816戸) カシの息子 後に独立し、「カイドゥ・ウルス」を建設する
カダアン王家 カダアン(Qada'an) ビシュバリク 汴梁路在城戸→鄭州(戸数不明) オゴデイの六男 モンケ時代に始めてウルスを形成する
メリク王家 メリク(Melik) イルティシュ河流域 汴梁路在城戸→鈞州(1584戸) オゴデイの末子 モンケ時代に始めてウルスを形成する

[57]

「カイドゥの乱」終結後、14世紀における大元ウルス統治下のオゴデイ系6王家[編集]

王家 代表的当主 推定遊牧地 1319年時点の実有戸数 王号 備考
グユク王家 オルジェイ・エブゲン王(Ölǰei Ebügen) 山西方面 大名路(12835戸) 無国邑 1331年には飢饉に陥ったとの記録あり
コデン王家 荊王トク・テムル(Toq temür) 河西永昌府 東昌路(17825戸) 汾陽王/荊王 1343年のトク・テムルの死で断絶した
クチュ王家 襄寧王アルグイ(Aluγui) 山西平陽路 睢州(1937戸) 襄寧王 オゴデイ時代のクチュ・ウルス領を継承
カシ王家 汝寧王クラタイ(Qulatai) 山西方面 蔡州(388戸) 汝寧王 クラタイは天暦の内乱で上都派につき、敗れて殺された
カダアン王家 隴王コランサ(Qorangsa) 河西方面 鄭州(2356戸) 隴王 山丹を拠点とするアジキと行動を共にする
メリク王家 陽翟王アルグ・テムル(Aruγ Temür) イルティシュ河流域 鈞州(2496戸) 陽翟王 10万の大軍を擁し、1360年に叛乱を起こす

[58]

各王家[編集]

グユク王家[編集]

グユク・ウルスの位置したジュンガル盆地

[59]

コデン王家[編集]

コデン・ウルスの中心地の一つ涼州(現在の甘粛省武威市

[60][61]

クチュ王家[編集]

クチュ・ウルスの中心地潞州(現在の長治市)一帯

[62]

カラチャル王家[編集]

[63]

カシ王家[編集]

[64]

カダアン王家[編集]

カダアン・ウルスの中心地ビシュバリク(現在の昌吉回族自治州)一帯

[65]

メリク王家[編集]

メリク・ウルスの本拠地イルティシュ川一帯

[66]

脚注[編集]



(一)^ ab1992,20-21

(二)^ 1996,66-67

(三)^ 西寿2004,110-111

(四)^ 2004,325

(五)^ ab2004,311-312

(六)^ 1992,44

(七)^ 2004,31-32

(八)^ 2010A,119

(九)^ 2010A,119

(十)^ 2010A,117

(11)^ 1992,38-40

(12)^ 12071211120712112004,33-34

(13)^ 1996A,42-45

(14)^ 西2004،51-53

(15)^ 西西/2015,63-65

(16)^ 2004،51

(17)^ 西34130247330西459452002,153

(18)^ 1980,36-40

(19)^ 2004,51

(20)^ 11996,76-77

(21)^ 西西1996,42-43

(22)^ 1996,79/81

(23)^ 沿西西1996,44-46

(24)^ 12361996,70-71

(25)^ 1992,22-23

(26)^ 1996A,90-95

(27)^ 1996A,95-98

(28)^ 1996A,98-100

(29)^ 1972,356

(30)^ 1992,27

(31)^ 2002,156

(32)^ 11992,25

(33)^ 1992,24-27

(34)^ 1996,25

(35)^ 1971,263-265

(36)^ 1999,6-9

(37)^ 1996B,51

(38)^ 2004,311-312/1996B,66-67

(39)^ 1985,329

(40)^ 1971,263

(41)^ 129721983,48-501996B,162

(42)^ 1982,2-3

(43)^ 129812991982,1-3

(44)^ 701西1301-130221996,28

(45)^ 13623

(46)^ 1988,194-196

(47)^ 1992,42-44

(48)^ /1992,35-36

(49)^ 354,1992,38-39

(50)^ 1992,40-42

(51)^ 458,

(52)^ 1992,40-41

(53)^ Uruk Tīmūr132010,p368西Örüg Temür

(54)^ 使西1959,207-208

(55)^ 西1959,233-234

(56)^ 1992,46

(57)^ 1996,49-50

(58)^ 1992,35-41

(59)^ 1996,24-25/34-35

(60)^ 1996,25/35-36

(61)^ 2004,458-473

(62)^ 1996,26/36-37

(63)^ 1996,26/37

(64)^ 1996,26-31/37-39

(65)^ 1996,31-32/39-40

(66)^ 1996,32-33/40-41

[]


11970

21970

 2013

2015

 : ()341995392-150CRID 1050282677039186304hdl:2433/73071ISSN 0452-9774 

2004

/1996(1996A)

/1996(1996B)

, 1991

西1982

41983

 1996

(1)西42010(2010A)

(2)6192010(2010B)

: 24/251985

:30/311988

=391992

= 1051996

西2002

C.M.6, 1968-1979