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クアルテート・エン・シー(Quarteto em Cy)は、1960年代からボサノヴァおよびMPBのジャンルで活動するブラジルの女性コーラス・グループである。
正式デビューまで[編集]
バイーア州サルヴァドール市生まれの4姉妹である、シーヴァ(本名‥cyva de sa leite 1939年生まれ)シベーリ(cybele 1940年生まれ)シナーラ(cynara 1945年生まれ)シレーニ(cylene 1946年生まれ)の頭文字が﹁cy﹂の4姉妹により結成される。1950年代の後半から地元で活動をはじめTVなどに出演し始め、1960年頃には、リオデジャネイロ市に進出しヴィニシウス・ヂ・モライス、カルロス・リラらと親交を結ぶ。彼らはグループの名付け親でもある。モライスは彼女たちを評価して熱心に引き立ててやり、﹁できるなら全員と結婚したいぐらいだ﹂という迷言を語ったという逸話がある。1963年には、映画﹁SOL SOBRE A LAME﹂のサントラに参加する。
正式デビュー〜第一黄金期[編集]
1964年にリオデジャネイロ市のボトルズ・バーで初のショーを開催し、これをもって正式にデビューする。その後、ヴィニシウスとドリヴァル・カイミの﹁ズンズン﹂のショーにも参加し、翌年レコード化︵エレンコから発売︶される。この年に初めての﹁クアルテート・エン・シー﹂名義でアルバム﹁QUARTETO EM CY﹂をFORMAから発売する。このアルバムには、デオダート、ボサ・トレス︵スペイン語版︶なども参加した。これと前後して﹁A BOSSA NO PARAMOUNT﹂︵RGEから発売︶に参加。収録曲はカルロス・リラの﹁TEM DO ME MIM﹂の1曲のみだが、貴重なライブ収録になる。
1965年には、2枚目のアルバム﹁SOM DEFINITIVO﹂(FORMAから発売︶を発売。タンバ・トリオ︵スペイン語版︶と録音し、エドゥ・ロボ作の﹁ALELUIA﹂﹁ARRASTAO﹂﹁ZAMBI﹂、バーデン・パウエル=ヴィニシウス作の﹁APELO0﹂、アントニオ・カルロス・ジョビン作の﹁AGUA DE BEBER﹂など収録。アフロ・サンバ色の強いアルバムになる。1966年初めバーデン・パウエル=ヴィニシウス作の﹁アフロ・サンバ︵OS AFRO SAMBAS︶﹂に参加。この年、シレーニが結婚により引退し、レジーナ・ヴェルネッキと交代し、シコ・ブアルキ作の﹁ア・バンダ︵A BANDA︶﹂を収録した﹁QUARTETO EM CY﹂︵FORMAから発売、上記の同名アルバムとは別の物︶を発売する。﹁cy﹂の辻褄を合わせるため、アルバム表記ではレジーナにもcyがついて﹁シレジーナ﹂にされてしまっていた。
この頃より数回渡米し、﹁アンディ・ウィリアムズ・ショー﹂出演。ワーナーよりガールズ・フロム・バイーア名義で﹁PERDON MY ENGLISH﹂を発売する。このアルバムは、ポルトガル語・英語両方の言語を収録したバラエティ色の強いアルバムになる。これと前後して﹁MARRE DE CY﹂(エレンコから発売︶を発売。シヂネイ・ミレール︵ポルトガル語版︶の作品や、黒人サンバなどレパートリーの幅を広げたアルバムになる。1967年にメンバー内のシナーラとシベーリがクアルテート・エン・シーと平行し﹁シナーラ・イ・シーベリ︵Cynara E Cybele︶﹂を結成。第2回リオ国際音楽祭でシコ・ブアルキ作の﹁CAROLINA﹂を歌い3位になる。翌年の第3回ではシコとジョビン作の﹁サビア︵SABIA︶﹂で優勝する。アルバム﹁Cynara E Cybele﹂、コンピレーション盤﹁AS 12 MAIS﹂﹁O BRASIL CANTA NO RIO﹂︵全てCBSソニーから発売︶などを発表し、クアルテート・エン・シーを退団する。ここまでが第1期黄金時代と呼べる。
新生クアルテート・エン・シーへ[編集]
1968年には﹁EM CY MAIOR﹂(ELENCO発売)を発売。セルジオ・ポルト︵スペイン語版、英語版︶、トッキーニョなどの作品を収録。ボサノヴァと言う括りで本作は語れない作品になる。これを機にELENCOから発表がなくなる。同年、アメリカではボサノヴァブーム真っ只中でワーナーより﹁THE EXCITING NEW SOUND﹂を発売する。この後、シンシア、シミラミスを代役にラスベガスなどで活動。1972年にシーヴァが帰国し、シナーラにドリーニャ・タパジョスとソーニアが加わり、新生クアルテート・エン・シーが誕生。オデオンと契約し﹁QUARTETO EM CY﹂︵オデオンから発売︶︵※上記同タイトルとは別のもの︶を1枚発売、さらにシングル盤を製作した。このあとにフィリップス・レコードと契約を結ぶ。
ここからが第2期黄金時代と呼べる。1974年には盟友ヴィニシウス、トッキーニョら等とのライブなどの活動を行うようになる。
1975年に﹁ANTOLOGIA DO SAMBA CANÇÃO VOL.1﹂、翌1976年には、同VOL.2︵共にフィリップスから発売︶に参加。サンバ・カンサォントリビュートアルバムで再評価に繋がる重要な盤である。
それ以降は、﹁RESISTINDO﹂︵1976年のライブ盤︶、﹁QUERELAS DO BRASIL﹂、︵1978年発売のアルバム︶、﹁COBRA DE VIDRO﹂︵1978年、MPB4︵英語版︶とのショー︶、﹁EM 1000 KILOHELTZ﹂︵1979年のショー︶、﹁FLICTS﹂(1980年、絵本作家ジラウド作品の音楽化作品。セルジオ・リカルドと共演︶、﹁INTERPRETA GONZAGUINHA CAETANO IVAN MILTION﹂︵1980年オムニバス盤︶などがある。このころ、メンバーのドリーニャが白血病で亡くなってしまう不幸が起きる。しかしシベーリを呼び戻し活動を再開する。それ以降も精力的にリリースを重ね、2006年時点でも活動を継続している。
外部リンク[編集]