グスタフ・マウリッツ・アルムフェルト
グスタフ・マウリッツ・アルムフェルト Gustaf Mauritz Armfelt | |
---|---|
アレクサンドル1世の胸像の前に立つアルムフェルト。ヨハン・エーリク・リンド画 | |
生誕 |
1757年3月31日 フィンランド・タルヴァスヨキ |
死没 |
1814年8月19日(57歳没) ロシア帝国・ツァールスコエ・セロー |
軍歴 | 1780年–1810年 |
最終階級 | 少将 |
キャリア
[編集]外交
[編集]軍役
[編集]ロシアへ
[編集]1814年8月19日にサンクトペテルブルク近郊のツァールスコエ・セローで没した[2]。
遺産
[編集]アルムフェルトは、ゲオルク・マグヌス・スプレングポルテンとともにフィンランド独立の父の一人と見なされている。反グスタフ3世派が多数を占めたスウェーデン貴族の間で不人気であったことと、スウェーデンを去ってロシア人となったことから、アルムフェルトはスウェーデンの歴史において極めて神秘的で一般的に知られていない人物であった。
スウェーデンでは、1世紀以上に渡ってアルムフェルト本人とその業績について知られておらず、アルムフェルトについて細かく前向きなアプローチが取られるようになったのはごく最近のことである。一方、フィンランドでは一貫して偉大な愛国者・政治家として高く評価されてきている。
アルムフェルトは、かつてフィンランドを統治したスウェーデンではなく、フィンランドとその国民に忠誠を尽くすことを選んだことから、スウェーデンでは裏切り者のレッテルを貼られ、反逆罪で死刑を宣告された。当時のスウェーデン人にとって、600年以上にわたって領土の一部であったフィンランドを失うことは受け入れられないことであったからである。しかも、フィンランドが長年の仇敵であったロシアに奪われ、アルムフェルトがそれに加担したということもアルムフェルトへの心証を大いに悪化させた。しかし、アルムフェルトに対する死刑判決は、スウェーデンがフィンランドを奪還するための行動を起こすことがなかったことから、スウェーデン国外では何ら意味を持つものではなかった。フィンランドの奪還は、政治家が貴族や大衆からの支持を得るために口にする言辞に過ぎなかったのである。早くも1812年にはスウェーデンはロシアと同盟を結び、判決も無効とされた。
家族
[編集]1785年、アルムフェルトはカール・ユリウス・デ・ラ・ガルディ伯爵とマグダレーナ・クリスティーナ・ステンボック伯爵夫人の娘であるヘートヴィヒ・ウルリカ・デ・ラ・ガルディと結婚し、7男1女を儲けた。
- マリア・マグダレーナ・カタリーナ・アウグスタ・アルムフェルト(1786年–1845年)
- グスタフ・フレドリク・アルムフェルト(1788年–1789年)
- カール・アルムフェルト(1788年、夭折)
- マグヌス・アルムフェルト(1788年、夭折)
- グスタフ・マグヌス・アルムフェルト(1792年–1856年):少将、伯爵
- アレクサンドル・アルムフェルト(1794年–1876年):大佐、フィンランド国務大臣、枢密院顧問、伯爵
- コンスタンティン・アルムフェルト(1796年–1797年)
- カール・マグヌス・ウィルヘルム・アルムフェルト(1797年–1878年)
パリの女優レクレア嬢と愛人関係にあり、非嫡出子としてモーリス・レクレア(1780年–1841年)を儲けている。また、ザーガン女公爵ヴィルヘルミーネとも関係を持ち、アデライド・グスタファ・アスパシア(ヴァヴァ)・アルムフェルト(1801年–1881年)を儲けている。このうちモーリスは1816年にスウェーデンでマウリッツ・クレアフェルトとして騎士に叙され、将軍に上っている。また、ヴァヴァは1812年にアルムフェルト家に養子縁組で移っている。
関連項目
[編集]参考文献
[編集]- ^ “Gustaf Mauritz Armfelt”. Biografisket Lexikon of Finland. 2010年6月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年8月1日閲覧。
- ^ a b c d e f Bain 1911.
- この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Armfelt, Gustaf Mauritz". Encyclopædia Britannica (英語) (11th ed.). Cambridge University Press.