コール・ポーター
コール・ポーター | |
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基本情報 | |
出生名 | Cole Albert Porter |
別名 | Cole Porter |
生誕 | 1891年6月9日 |
出身地 | アメリカ合衆国 インディアナ州 |
死没 | 1964年10月15日(73歳没) |
学歴 | イェール大学、ハーバード大学 |
ジャンル | ミュージカル・映画音楽 |
職業 | 作曲家 |
コール・ポーター︵Cole Porter、1891年6月9日 - 1964年10月15日︶は、アメリカ合衆国の作曲家・作詞家。本名コール・アルバート・ポーター︵Cole Albert Porter︶。機知に富んだ都会的な詞で知られ、ミュージカルや映画音楽の分野で多くのスタンダード・ナンバーを残した。ミュージカル﹃キス・ミー・ケイト﹄は特に人気が高く、日本でもしばしば上演される。
コール・ポーターと
エド・サリヴァン
︵1952年︶
1930年、ミュージカル﹃ザ・ニューヨーカーズ﹄︵en:The New Yorkers︶に﹁ラブ・フォー・セール﹂等の楽曲を提供した。この時も成功には至らず、逆に歌詞の内容が物議を醸しラジオ放送禁止となるが、﹁ラブ・フォー・セール﹂は後年スタンダード・ナンバーとなった。そして、1932年にはミュージカル﹃陽気な離婚︵Gay Divorce︶﹄が大ヒットする。ここでフレッド・アステアが歌った﹁夜も昼も﹂は、コールの代表曲の一つと目される。1936年には映画﹃踊るアメリカ艦隊﹄に﹁イージー・トゥ・ラヴ﹂等を提供し、映画音楽の分野にも進出した。
1948年、ミュージカル﹃キス・ミー・ケイト﹄が大ヒットし、トニー賞を受賞した。1958年には落馬による負傷が元で右足に潰瘍ができ、手術を繰り返した末に切断して義足を付ける。その後も多くの曲を作るが、1964年、腎不全のためカリフォルニア州サンタモニカで亡くなる。
来歴[編集]
インディアナ州生まれ。6歳でヴァイオリンを、8歳でピアノを習う。イェール大学在学中に大学公式応援歌﹃ブルドッグ﹄を作曲する。﹃ブルドッグ﹄はラグビーのタッチダウンが成功した時に歌われる[1]。卒業後、ハーバード大学に入学するが、最終的に音楽家としての道を選ぶ。 1915年、ブロードウェイ・ミュージカル﹃Hands Up﹄に楽曲提供し、本格的に作曲家として活動を開始する。しかし、翌年手がけた﹃まずアメリカを見よ﹄が、2週間で打ち切られるという挫折を経験し、その後パリに渡る。1918年、リンダ・リー・トーマスと出会う。コールは自分が同性愛者であることを告白するが、リンダは結婚に応じた[注釈 1]。ヨーロッパでも作曲活動を続け、1923年にはバレエ曲﹁Within The Quota﹂を作曲した。しかし、依然として成功に恵まれず、1920年代後半に帰国した。代表作[編集]
●﹁アイ・ゲット・ア・キック・アウト・オブ・ユー︵君にこそ心ときめく︶﹂ ●﹁アイ・ラヴ・ユー﹂ ●﹁アイ・ラヴ・パリ﹂ ●﹁アイヴ・ガット・ユー・アンダー・マイ・スキン︵あなたはしっかり私のもの︶﹂(en:I've Got You Under My Skin)(1936年) - フランク・シナトラやフォー・シーズンズにカバーされた[2]。 ●﹁イージー・トゥ・ラヴ﹂ - チャーリー・パーカーやハンク・モブレー等が取り上げた。 ●﹁イン・ザ・スティル・オブ・ザ・ナイト﹂ ●﹁エニシング・ゴーズ﹂ ●﹁オール・オブ・ユー﹂ - マイルス・デイヴィスのレパートリーとなり、アルバム﹃ラウンド・アバウト・ミッドナイト﹄に収録された他、初来日公演でも演奏された。モダン・ジャズ・カルテット、ビル・エヴァンス、キース・ジャレット・トリオ等も取り上げる。 ●﹁ゲット・アウト・オブ・タウン﹂ ●﹁ソー・イン・ラヴ﹂ - モートン・グールド編曲のバージョンが、日本のテレビ番組﹃日曜洋画劇場﹄のエンディング・テーマに使われた。 ●﹁トゥルー・ラヴ﹂ - ジョージ・ハリスンのアルバム﹃33 1/3﹄で取り上げられた。 ●﹁ナイト・アンド・デイ﹂ ●﹁ビー・ア・クラウン﹂ ●﹁ビギン・ザ・ビギン﹂ ●﹁マイ・ハート・ビロングス・トゥ・ダディ﹂ ●﹁ユード・ビー・ソー・ナイス・トゥ・カム・ホーム・トゥ﹂ ●﹁ユーアー・ザ・トップ︵en:You're The Top︶﹂ ●﹁ラヴ・フォー・セール﹂ミュージカル[編集]
●1930年‥ザ・ニューヨーカーズ︵The New Yorkers︶ - ﹁ラヴ・フォー・セール﹂ ●1932年‥陽気な離婚︵Gay Divorce︶ - ﹁ナイト・アンド・デイ﹂ ●1934年‥エニシング・ゴーズ︵Anything Goes︶ - ﹁エニシング・ゴーズ﹂﹁アイ・ゲット・ア・キック・アウト・オブ・ユー﹂﹁ユーアー・ザ・トップ︵en:You're The Top︶﹂ ●1935年‥ジュビリー︵en:Jubilee (musical)︶ - ﹁ビギン・ザ・ビギン﹂ ●1938年‥リーヴ・イット・トゥ・ミー︵Leave It To Me︶ - ﹁ゲット・アウト・オブ・タウン﹂﹁マイ・ハート・ビロングス・トゥ・ダディ﹂ ●1943年‥メキシカン・ヘイライド︵Mexican Hayride︶ - ﹁アイ・ラヴ・ユー﹂ ●1948年‥キス・ミー・ケイト︵Kiss Me, Kate︶ - ﹁ソー・イン・ラヴ﹂ ●1953年‥カン・カン︵Can-Can︶ - ﹁アイ・ラヴ・パリ﹂ ●1954年‥絹の靴下︵Silk Stockings︶ - ﹁オール・オブ・ユー﹂コール・ポーター作品による映画[編集]
●1936年‥踊るアメリカ艦隊︵Born To Dance︶ - ﹁イージー・トゥ・ラヴ﹂﹁あなたはしっかり私のもの﹂ ●1937年‥ロザリー︵:en:Rosalie︶ - ﹁イン・ザ・スティル・オブ・ザ・ナイト﹂ ●1942年‥サムシング・トゥ・シャウト・アバウト︵Something To Shout About︶ - ﹁ユード・ビー・ソー・ナイス・トゥ・カム・ホーム・トゥ﹂ ●1948年‥踊る海賊︵The Pirate︶ - ﹁ビー・ア・クラウン﹂ ●1953年‥キス・ミー・ケイト︵:en:Kiss Me Kate︶ ●1955年‥上流社会︵High Society︶ - ﹁トゥルー・ラヴ﹂ ●1968年‥キス・ミー・ケイト︵:en:Kiss Me Kate 1968︶伝記映画[編集]
●夜も昼も︵:en:Night and Day 1946︶ - 1946年公開、マイケル・カーティス監督。コール・ポーター役はケーリー・グラント。レイ・ハインドルフとマックス・スタイナーによる音楽はアカデミー賞にノミネートされた。 ●五線譜のラブレター︵De-Lovely︶ - 2004年公開、アーウィン・ウィンクラー監督。コール・ポーター役はケヴィン・クライン。アラニス・モリセット、シェリル・クロウ、エルヴィス・コステロ、ダイアナ・クラール、ナタリー・コールなどがコールの曲を歌った。バレエ作品[編集]
1923年、ジェラルド・マーフィーと共同で﹁Landed﹂という短いバレエ作品を作曲した。パリで1920年に創設されたバレエ団﹁バレエ・スエドワ﹂のために書かれた16分あまりのこの作品は、後に﹁Within the Quota﹂に改題され、アメリカ移民が映画スターになるまでを風刺的に描いている。シャルル・ケクランによりオーケストレーションされ、ダリウス・ミヨーの世界の創造と同夜に初演された。ジョージ・ガーシュウィンのラプソディ・イン・ブルーに先立つこと4カ月前の、もっとも初期のシンフォニックジャズの一つである。1923年10月にシャンゼリゼ劇場で行われた初演は、フランス、アメリカの双方の観客から好意的に受け入れられた[注釈 2]。 翌月、成功裡に終わったニューヨーク公演を皮切りに﹁バレエ・スエドワ﹂は、全米で69回公演を行った。1年後の1925年、﹁バレエ・スエドワ﹂が解散すると曲のスコアは失われたが、残された原稿をもとに1966年から1990年にかけてミヨーらによって復元された。トリビュート・アルバム[編集]
コールの楽曲はジャズの素材として好まれ、多数のトリビュート・アルバムがある。- エラ・フィッツジェラルド『シングス・ザ・コール・ポーター・ソングブック』(1956年)
- オスカー・ピーターソン『プレイズ・コール・ポーター』(1959年)
- ステファン・グラッペリ『プレイズ・コール・ポーター』(1976年)
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ “Yale Fight Songs | Yale Bands”. bands.yalecollege.yale.edu. 2021年1月22日閲覧。
- ^ ベスト 2017
- ^ "Paris", The Musical Times, December 1923, p. 874
参考資料[編集]
- ヴェリー・ベスト・オブ・フランキー・ヴァリ&フォー・シーズンズ (ライナーノーツ). フランキー・ヴァリ&ザ・フォー・シーズンズ. ワーナーミュージック・ジャパン. 2017. WCR26211。