ゴットフリート・フォン・アイネム
ゴットフリート・フォン・アイネム Gottfried von Einem | |
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基本情報 | |
生誕 |
1918年1月24日 スイス ベルン |
出身地 |
ドイツ国 国籍 オーストリア |
死没 |
1996年7月12日(78歳没) オーストリア ニーダーエスターライヒ州 |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 | 作曲家 |
担当楽器 | ヴァイオリン |
ゴットフリート・フォン・アイネム︵Gottfried von Einem、1918年1月24日 - 1996年7月12日︶は、オーストリアの作曲家。
略歴[編集]
スイスのベルンでオーストリア軍の駐在武官の息子として生まれた。1921年に一家はドイツのシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州のマレンテに移り住んだ。その後ベルリンに行き、ボリス・ブラッハーに師事し、1938年からベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のコレペティトールとなった。ベルリン時代にヴェルナー・エックのすすめでバレエ﹃トゥーランドット姫﹄を作曲している。1944年にドレスデン歌劇場の音楽アドバイザーに就任。 作曲家として1947年のザルツブルク音楽祭で上演されたオペラ﹃ダントンの死﹄で名声を得た。やがて1953年にウィーンに行き、1954年からウィーン国立歌劇場の芸術顧問を務めた。さらに1963年から1972年までウィーン音楽院の教授を務め、1965年から1970年までオーストリア音楽アカデミーの会長を務めた。その後は、ニーダーエスターライヒ州のヴァルトフィアテル︵森林地区︶で暮らした。 先妻が死去した後の1966年に劇作家のロッテ・イングリッシュと結婚し、後期のオペラの多くは彼女の台本によるものである。オーストリア社会民主党の政治家で、閣僚経験者のカスパー・アイネムは先妻との間の息子である。ナチス時代に音楽家コンラート・ラーテ︵Konrad Latte︶の命を救ったとされてイスラエル政府より﹁諸国民の中の正義の人﹂の称号を与えられた。作風[編集]
典型的なウィーン保守派に属し、乾いたリズムや確固とした旋律が特徴的である。ジャズとイーゴリ・ストラヴィンスキーとセルゲイ・プロコフィエフの影響も受けている。初期は調性の逸脱も若干はあるが次第にそれすらもなくなり、晩年は完全な調性音楽の作曲家として認識されていたばかりか、第4交響曲に至っては古典の引用も含まれている。Tierrequiem op. 104のころは和声も簡素化されていたが、表出力の強いメロディーは使い続けていた。本質的には劇音楽の作曲家であった。作品[編集]
オペラ[編集]
●ダントンの死 ●審理 ●老婦人の訪問 ●企みと恋 ●イエスの婚礼バレエ[編集]
●トゥーランドット姫 ●メドゥーサ交響曲[編集]
●フィラデルフィア交響曲管弦楽曲[編集]
●ブルックナー・ディアローグ op. 39 ︵1971年︶ブルックナーの交響曲第9番第4楽章の未完のスケッチに基づく作品。 ●管弦楽のためのカプリッチョ︵Op. 2︶文献[編集]
●Dominik Hartmann: Gottfried von Einem. Verlag Lafite, Wien 1967 (Komponisten unserer Zeit, Bd. 11), S. 84, ISBN 978-3-85151-048-5.エピソード[編集]
1993年にNHK教育テレビジョンで同じ出版社に属するユン・イサンと浅田彰を迎えて鼎談を行った事がある[1]。この放送の2年後ユンは死去。3年後はアイネムも死去しており、二人の大作曲家の晩年の意見として貴重な記録となった。外部リンク[編集]
脚注[編集]
- ^ “シンポジウム「ゴットフリート・フォン・アイネム生誕100年」”. www.albanberg.jp. 2019年2月23日閲覧。