ジュリエット・グレコ
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ジュリエット・グレコ Juliette Gréco | |
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1966年 | |
基本情報 | |
出生名 | Marie-Juliette Gréco |
生誕 | 1927年2月7日 |
出身地 | フランス・モンペリエ |
死没 | 2020年9月23日(93歳没) |
学歴 | パリ・オペラ座舞踊学校 |
ジャンル |
シャンソン ジャズ |
職業 | 歌手、女優 |
活動期間 | 1949年 - 2016年 |
レーベル |
フィリップス・レコード コロムビア・レコード バークレー・レコード RCAレコード ポリドール・レコード ユニバーサル ミュージック グループ |
公式サイト | juliettegreco.fr |
ジュリエット・グレコ ︵Juliette Gréco、1927年2月7日 - 2020年9月23日︶は、フランス出身のシャンソン歌手、女優。
約70年のキャリアを誇る、同国を代表する歌手の一人。世界的にも最高峰の歌手と称えられ、戦後のシャンソン界を牽引する存在であったが、2016年を最後に一線から退いた。
ジュリエット・グレコ︵1956年3月7日︶
コルシカ島出身の父と、レジスタンス活動家の母との間に生まれる。ジュリエットは母方の祖父母に育てられるが、自身もレジスタンス活動に巻き込まれゲシュタポにより、パリ近郊のフレンヌ監獄の収容所に、母と姉はドイツのラーフェンスブリュック強制収容所に入れられた[1]。若年だったため早期に釈放され、エレーヌ・デュック (fr [2]) が住むサン=シュルピス教会近くのパリ6区セルヴァンドニ通り (fr) 20番地[3]へやってきた。そこで寄留することになり、家にあったあり合わせの男物の服を着て、エレーヌの友人アリス・サプリッチ (fr) から靴をあたえられたりしたが、いわば“サンジェルマンスタイル”をこの時に創り出した。
ジュリエットは、たちまち戦後フランスのボヘミアンのスターに躍り出た。“サン=ジェルマン=デ=プレのミューズ”、“グレコ”あるいは“ラ・グレコ”などと呼ばれた。黒い長い髪をなびかせ、黒ずくめの衣装で歌うのがトレードマークで、彼女はジャン・ポール・サルトルやボリス・ヴィアンらアーティストのインスピレーションを刺激し、彼らから曲の提供を受けるなどして、一線で活躍した。ジャン・コクトーが映画﹃オルフェ﹄に起用した。﹃パリの空の下﹄のカバーや、また﹃枯葉﹄はバレー曲、映画音楽などとして作曲され、シャンソンとして歌詞がつき、その後ジュリエットの歌で流行り、マイルス・デイヴィス[4]もセッションの2曲目としてよく演奏した[5]。
オーストリア﹁Vienna Festival 2009﹂(200 9年5月)
以後、世界的にも最高峰クラスのシャンソン歌手と称えられ、近年までレコーディングした曲は500曲を超えている[6]。
女優としても活動し、特に1950年代から1960年代の間には数多くの映画に出演している。日本には通算22回来日し[7]、その間 日本にもシャンソン・ブームをもたらした[8]。
2015年4月、現役は続行するものの、ステージからの引退を表明した。これまでの長いキャリアの上で応援をしてくれた全てのリスナーへ、感謝を込めて贈るベスト・アルバム﹃メルシー﹄を引っさげ、2016年に最後のコンサートツアーを実施。
2020年9月23日、老衰により93歳で死去[9][10]。
略歴[編集]
若年期と活動後[編集]
私生活[編集]
私生活では、俳優フィリップ・ルメール (1953年–1956年)、俳優ミシェル・ピコリ (1966年–1977年) と結婚歴があり、1988年からピアニストのジェラール・ジュアネスト︵2018年死去︶を伴侶に迎えた。そのほか過去には、アメリカのジャズミュージシャン、マイルス・デイヴィスと恋愛関係にあったが、成就せず結婚には至らなかった。しかしその後も、生涯の友人関係として続いた[11]。ディスコグラフィ[編集]
スタジオアルバム[編集]
●1964: Gréco chante Mac Orlan ●1967: La Femme ●1991: Juliette Gréco chante Maurice Fanon ●1993: Vivre dans l’avenir ●1998: Un jour d’été et quelques nuits ●2003: Aimez-vous les uns les autres ou bien disparaissez … ●2006: Le Temps d’une chanson ●2009: Je me souviens de tout ●2012: Ça se traverse et c’est beau ●2013: Gréco chante Brel ●2015: Merci! そのほか多数ライブアルバム[編集]
●1965: Juliette Gréco à la Philharmonie de Berlin ●1966: Juliette Gréco in Deutschland ●1992: Juliette Gréco à l’Olympia ●1999: Juliette Gréco Odéon 1999 ●2004: Juliette Gréco Olympia 1955 – Olympia 1966 ●2004: Juliette Gréco Olympia 2004 そのほか多数映画出演[編集]
●﹃この手紙を読むときは﹄"Quand Tu Liras Cette Lettre" (1953年) ●﹃恋多き女﹄"Elena et les Hommes" (1956年) ●﹃日はまた昇る﹄"The sun also rises" (1957年) ●﹃自由の大地﹄"The Roots of Heaven" (1958年) ●﹃悲しみよこんにちは﹄ "Bonjour tristesse" (1958年) ●"Lily,Love me" (1975年) ●﹃ルーヴルの怪人﹄ "Belphegor,Phantom of the Louvre" (2001年) ●"Everyman's Feast" (2002年) そのほか多数日本公演[編集]
日本には通算22回来日している。以下はその一部- 1976年
- 1979年
- 11月24日 - 29日 草月ホール
- 1991年
- 2014年
- 9月24日 すみだトリフォニーホール、 9月26日 Bunkamura オーチャードホール、 9月30日 中之島フェスティバルホール
脚注[編集]
(一)^ 母・姉の同収容所の同ブロックには、シモーヌ・ヴェイユ (政治家)の姉ドニス・ヴェルネ (fr) がいた。のちにジュヌヴィエーヴ・ド・ゴール=アントニオーズが加わった。戦後の1946年に、母はフランス海軍についてフランス領インドシナへ行った。
(二)^ 母の友人で、グレコのフランス語等の教師だった。のち女優。
(三)^ 同通り18-20番地はかつてオランプ・ド・グージュが居住した地になる。
(四)^ グレコは、サルトルのルイジアンヌ館 (fr) に居住し、のちに同建物に居住していたマイルス・デイヴィスとも近しい関係になった。
(五)^ BS-TBS﹃SONG TO SOUL〜永遠の一曲〜﹄ジュリエット・グレコ﹁枯葉﹂ 2018年12月23日放送
(六)^ “ジュリエット・グレコ、オールタイム・ベストを引っ提げ最後の来日公演を6月開催”. musicman-net (2016年3月16日). 2018年2月13日閲覧。
(七)^ “ジュリエット・グレコ、ベスト盤”. TOWER RECORDS (2016年2月10日). 2018年2月13日閲覧。“仏歌手の来日公演が中止 ジュリエット・グレコさん”. 産経新聞 (2016年4月28日). 2018年2月13日閲覧。
(八)^ “ジュリエット グレコ”. VOYAGE GROUP/朝日新聞 (2017年5月26日). 2018年2月13日閲覧。
(九)^ “ジュリエット・グレコさん死去 仏シャンソンの大御所”. 朝日新聞デジタル (2020年9月24日). 2020年12月15日閲覧。
(十)^ "La chanteuse Juliette Gréco est morte". Le Monde (フランス語). Groupe Le Monde. 23 September 2020. 2020年9月24日閲覧。
(11)^ “マイルス・デイヴィスとジュリエット・グレコの生涯を貫いた愛”. Music Calendar (2017年5月26日). 2018年2月13日閲覧。
外部リンク[編集]
- 公式ウェブサイト
- ジュリエット・グレコ - IMDb(英語)