ジョルジュ・ネラン
ジョルジュ・ネラン Georges Neyrand | |
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教区 | カトリック東京大司教区 |
聖職 | |
司祭叙階 | 1950年 |
個人情報 | |
出生 |
1920年2月2日 フランス リヨン |
死去 |
2011年3月24日(91歳没) 日本 東京都小金井市 |
国籍 | フランス |
ジョルジュ・ネラン︵仏: Georges Neyrand、1920年2月2日 - 2011年3月24日[1]︶は、リヨン生まれのフランス人で、カトリック教会司祭。カトリック東京大司教区。スナックバー・エポペ創立者・顧問。
略歴[編集]
●1940年 フランス・サン・シール陸軍士官学校卒業、陸軍少尉に任官するも、ナチスドイツのフランス占領で武装解除・退役 ●1943年 神学校入学 ●1950年 司祭叙階 ●1952年 宣教師として来日 ●1962年 ネラン塾開塾(-66年終了) ●1970年 財団法人真生会館理事長(1976年11月30日理事長・館長を退任) ●1980年 スナックバー・エポペ設立 ●2011年3月24日、すい臓がんのため、東京都小金井市のホスピスで死去。91歳没[1]。人物[編集]
フランス、リヨン生れ。サン・シール陸軍士官学校を卒業しフランス陸軍に入隊するもナチス・ドイツのフランス侵攻のため武装解除ののち退役、最終階級は陸軍中尉。1950年、神父となり、1952年、宣教師として来日。 日本におけるローマ・カトリック典礼の国語化の責任者となる長江恵司教の依頼により、﹃ろごす―キリスト教研究叢書﹄︵1号-13号、紀伊国屋書店、1959年 - 1964年︶の編集・発行人として、当時のカトリック教会の最新の神学や第2バチカン公会議の精神を日本に広める役割を担った。 戦後初のフランスへの日本人留学生として、フランス船マルセイエーズ号で横浜港を出航した遠藤周作、三雲夏生、三雲昂らを受け入れたことでも知られている。遠藤順子︵遠藤周作夫人︶によると、ネラン神父は個人的に奨学金を提供して彼らを支えていたが、当時の遠藤らはそれを全く知らなかったという。 来日後も遠藤周作らと生涯にわたる親交があり、その感謝をこめて描かれた青年ガストン・ボナパルト︵小説﹃おバカさん﹄、﹃悲しみの歌﹄、﹃深い河﹄に登場する人物︶は、この宣教師がモデルだったことを遠藤自身が語っている[2]。活動[編集]
渋沢・クローデル賞選考委員、ネラン塾主宰、東京大学、慶應義塾大学、立教大学などの非常勤講師、朝日カルチャーセンター・キリスト教講座講師、神学研究、翻訳など幅広く活動する。 1980年からサラリーマンとの本音での出会いを求めて、教え子たちや教会関係者から出資を募り、東京・新宿区歌舞伎町にスナックバー・エポペ︵美しい冒険︶を開設し、学究生活の傍らバーテンダーとしてキリスト教にとどまらず、宗教や生きがい、恋愛や結婚について、数多くの人々の話に耳を傾けてきた。著書[編集]
- 我ら人生を論ず(1969年、春秋社)
- 神の場(テイヤール・ド・シャルダン 真生シリーズ1)(1972年、新教出版社)
- アンチオケのイグナチオ書簡(1975年、みすず書房、共訳)
- キリスト論(1979年、創文社)
- 盛り場司祭の猛語録(1980年、コルベ出版)
- Le Palais des Fetes(1983年、三島由紀夫『鹿鳴館』の仏語訳、Gallimard)
- おバカさんの自叙伝半分―聖書片手にニッポン40年間(1988年、講談社)
- キリストの復活(1997年、新教出版社)
- ま、飲みながらでも―貴方にキリストをご紹介します(2000年、フリ-プレス/星雲社)
- 私にとって復活とは(林 あまり / 豊竹 英大夫 / 三浦 光世 / ジョルジュ ネラン / 村上 陽一郎 共著)(2004年、日本キリスト教団出版局)
関連人物[編集]
脚注[編集]
- ^ a b カトリック東京大司教区 教区からのお知らせ 訃報 ネラン・ジョルジュ神父
- ^ 『おバカさんの自叙伝半分―聖書片手にニッポン40年間』(講談社)巻頭言