セルゲイ・オルデンブルク
セルゲイ・フョードロヴィチ・オルデンブルク︵オリデンブルク、Серге́й Фёдорович Ольденбу́рг / Sergey Fyodorovich Oldenburg, 1863年9月26日 - 1934年2月28日[1]︶は、ロシアの東洋学者。
略歴[編集]
ピョートル1世の時代にメクレンブルクから移住・定着した貴族のオルデンブルク家出身。 ザバイカリエ州ネルチンスク地区に生まれる。 1885年にペテルブルク大学を卒業し、1889年にペテルブルク大学の講師、1894年には教授、ついでロシア科学アカデミーの常任書記、1900年には科学アカデミーの会員に選ばれている[2]。 インドの古代文学・説話の研究者であり、1897年にロシア科学アカデミーの附属事業として大乗仏典出版会を発起して、﹁Bibliotheca Buddhica﹂を出版した。これは国際的規模の事業であり、1962年までで32冊が刊行されている[3]。ほとんど毎年ヨーロッパ各地を旅行し、仏教美術についての識見を広げ、ついにはレニングラード東洋美術館の館長を歴任するほどの権威となる。 リベラル派の政治家でも知られ、立憲民主党に属した。ロシア臨時政府では文化大臣も務めている。10月革命後は一時拘束された。その後は研究を続ける傍ら拘束された学者たちの釈放に尽力した。しかし、スターリン時代になると干渉を受けた。 レニングラードで死去。 オルデンブルグはロシア科学アカデミーの終身会員だった[4]。息子のセルゲイはジャーナリスト、歴史学者になり1925年にパリに移住した[4]。その娘のひとりゾーヤ・セルゲーエヴナ︵ゾエ・オルダンブール︶も歴史学者・作家となった[4]。オルデンブルク探検隊[編集]
第一次探検[編集]
第1次︵1909年 - 1910年︶は、カラシャール・クチャ・トルファン・ハミなどを調査した。第二次探検[編集]
第2次︵1914年 - 1915年︶は、敦煌方面を調査探検した。報告書[編集]
●Russkaya Turkestanskaya ekspeditsiya, Kratkij Predvarjtel'nyi Otchet, 1914︵ロシア・トルキスタン探検予備報告︶参考文献[編集]
●石浜純太郎﹁オルデンブルグ記念論文集﹂︵﹃東洋史研究﹄1-2、1935年︶ ●江上波夫/マーロフ,S.E.﹁オルデンブルグ探検の回鶻文書﹂︵﹃蒙古学﹄3、1938年︶ ●梅原末治﹁西域探検家の横顔‥ルコック博士とオルデンブルグ先生﹂︵﹃世界美術全集 月報﹄14、1952年︶ ●山本達郎﹁敦煌発見オルデンブルグ及びペリオ将来戸制田制関係文書10種﹂︵﹃史学雑誌﹄69-12、1960年︶ ●土肥義和﹁オルデンブルグ蒐集の敦煌漢文文書﹂︵﹃東洋学報﹄78-4、1997年︶出典[編集]
- ^ 『オルデンブルク』 - コトバンク
- ^ 加藤九祚『ユーラシア記』法政大学出版局、1984年、113頁。
- ^ 加藤九祚『ユーラシア記』法政大学出版局、1984年、114頁。
- ^ a b c Mary-Helen Becker (1996). "OLDENBURG, Zoé, n. 1916". In Christiane P. Makward; Madeleine Cottenet-Hage (eds.). Dictionnaire littéraire des femmes de langue française: de Marie de France à Marie NDiaye. KARTHALA Editions. ISBN 9782865376766。