ソンゾーニョ・コンクール
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ソンゾーニョ・コンクール︵Concorso Sonzogno︶は、イタリア・ミラノの楽譜出版社ソンゾーニョ社が19世紀後半開催した新作オペラのコンクールである。1883年から不定期に合計4回開催されたが、その第2回の優勝作品としてマスカーニの﹃カヴァレリア・ルスティカーナ﹄を選出、以降の﹁ヴェリズモ・オペラ﹂ブームを呼んだことで特に知られる。
ソンゾーニョ社の野望[編集]
ソンゾーニョ社はもともと、1804年にジョヴァンニ・バッティスタ・ソンゾーニョによって文学出版社Casa Editrice Sonzognoとして設立され[1]、フランス文学、例えばヴィクトル・ユゴーの翻訳出版などによって斯界では一定の地位を得ていた。また同社の日刊新聞 "Il Secolo" は19世紀中頃、イタリア統一国家形成を支持するラディカルで進歩的な論陣を張り、イタリア最大の発行部数を誇っていた。 しかし創業者の孫であり、劇作家あるいは舞台俳優としても活躍したことがあったエドアルド・ソンゾーニョ︵1836年 - 1920年︶はこういった単なる文学・時事関連出版社としての地位に飽き足らず、音楽出版部門Casa Musicale Sonzognoを1874年に設立した[1]。 同社はまず、フランス音楽研究の権威として知られるアミントレ・ガッリ︵後にミラノ音楽院の教授︶を音楽分野のアドヴァイザーとして据える。また音楽雑誌の分野では、リコルディ社の権威ある週刊誌 "Gazzetta musicale di Milano" に対抗して、隔月刊 "Il teatro illustrato" 誌ならびに "La musica popolare" 誌を刊行した。 しかし、イタリアにおける音楽出版業の主戦場は、やはりオペラの楽譜の出版であった。ソンゾーニョ社が音楽分野に進出した1874年当時、すでに物故した大家ロッシーニ、ベッリーニ、ドニゼッティ、および存命中でありイタリア・オペラ界の頂点として君臨していたヴェルディの版権は全てリコルディ社に、イタリアでの中堅作曲家のそれはリコルディ社とそのライヴァルのルッカ社に占有されるという寡占状態を呈していた。また、ルッカ社は巨費を投じてオベール、マイアベーアなどフランスのグランド・オペラの既存の主要作、ならびにドイツからはワーグナーの作品版権を購入し、ワーグナー作品を積極的に紹介することでイタリアにおけるワーグナー受容の進展をもたらした︵もっともルッカ社は、こうした先行投資負担も一因で経営不振に陥り、1888年にリコルディ社に事実上吸収合併される憂き目に遭う︶。 イタリア、フランス、ドイツ既存作品に食い入ることのできないソンゾーニョ社は、アドヴァイザーであるガッリのフランス楽壇に対するコネクションを活かす形で、まずはフランスからオペラ・コミック︵グランド・オペラと異なり、台詞を含んだ形式︶のイタリアにおける版権を取得する。この企業戦略は1875年にパリで初演されたビゼーの﹃カルメン﹄という金の卵として結実した。﹃カルメン﹄は1880年にナポリでイタリア初演された後、イタリア半島各地で再演され大好評を博した。同社はこの余勢を駆って、リコルディ、ルッカ両社にまだ囲い込まれていないイタリア人新人作曲家の発掘を試みる。そのための手段がコンクールの開催だった。第1回コンクール︵1883年︶[編集]
1883年4月、ソンゾーニョ社は自社発行誌 "Il teatro illustrato" にコンクール開催を発表する。その要綱は以下の通りであった。 ●イタリア国籍をもつ若い作曲家のオペラ作品であること ●1幕のみで完結すること ●﹁セリア﹂︵まじめなもの︶であるか﹁ジョコーゾ﹂︵おどけたもの︶であるかは問わない ●5人の審査員からなる選考委員会は応募作から2作品を選出、それらはミラノの歌劇場で上演され、そこでの聴衆の反応も参考に優勝作品が決定される ●提出期限は1883年12月末 1幕物オペラという条件が組み入れられた背景には、舞台感覚に秀でたエドアルド・ソンゾーニョのたっての要望があったという説もあるが、審査委員会の負担緩和、ならびに舞台化費用軽減という実際的な意味合いが大きかったであろう。いずれにしてもこの条件は、この時代のイタリア人作曲家にとって、新奇とはいえないまでも挑戦を要する条件であった。もちろん、ペルゴレージに始まり、ロッシーニからドニゼッティに至る短幕物オペラ・ブッファの伝統は存在したが、19世紀中期以降のイタリア・オペラはグランド・オペラ様式の影響などもあり、大規模化の一途を辿る一方であった。単幕化の要請はより緊迫化したドラマ構成を要求しているのは疑いなかった。 また﹁イタリア国籍の作曲家﹂という条件は国家統一なればこそのものであり、19世紀後半ヨーロッパ各国でのナショナリズム勃興の流れを汲んだものともいえる。 優勝賞金は2000リラ︵これは当時、ピアノ教師などで生計を維持している若手作曲家にとって優に年収以上に相当した︶、1次審査通過作品の上演はソンゾーニョ社の費用負担によるとされた。審査委員会メンバーはガッリと、やはりミラノ音楽院作曲科の2教授、ポンキエッリ︵オペラ﹃ラ・ジョコンダ﹄の作曲で有名︶およびドミニチェーティ、ミラノ・ドゥオーモのオルガン奏者プラタニア、そしてイタリアにおけるワーグナー信奉者の筆頭格としても有名な指揮者のファッチョの5名だった。 応募総数は28作品だった。翌1884年4月に1次審査通過作品として選出されたのは、ルイジ・マペッリの﹃アンナとグァルベルト﹄︵Anna e Gualberto︶およびグリエルモ・ズエッリの﹃北の妖精﹄︵La fata del Nord︶であり、これらは同年5月4日、ミラノのマンゾーニ劇場で初演された。聴衆の評価はほぼ二分状態であり、委員会は両作を優勝とし、作曲家たちに1000リラずつを授与した。なお、今日これら作品も、彼らの他作も顧みられることは全くない。プッチーニと﹃妖精ヴィッリ﹄[編集]
後にヴェルディに次ぐイタリア・オペラの大家となるプッチーニも、このコンクールに処女作﹃妖精ヴィッリ﹄︵Le Villi︶をもって参加していた。すでに同1883年発表した﹃交響的奇想曲﹄︵Capriccio sinfonico︶がミラノ楽壇で注目され、またミラノ音楽院ではポンキエッリに師事し、ファッチョの知遇も得ていたプッチーニは自他共に認める有力候補のはずだった。実際、当初プッチーニに期待し、﹃妖精ヴィッリ﹄の台本作家フェルディナンド・フォンターナを引き合わせたのもポンキエッリだった。 ところが、﹃妖精ヴィッリ﹄は佳作として紹介されることすらなかった。作品自体の巧拙はさておき、遅筆のプッチーニは提出期限ぎりぎりになってようやく応募した上、その自筆譜が判読不能なほどの悪筆であったことも理由として考えられている。この後、ソンゾーニョ社のライバル、リコルディ社の当時の総帥ジュリオ・リコルディは同作品などプッチーニの才能に着目し、プッチーニを自社の若きエース級作曲家として支援・育成していくことになる。ソンゾーニョ社にとっては図らずも敵に塩を送った格好であった。第2回コンクール(1888年)と『カヴァレリア』の成功[編集]
「カヴァレリア・ルスティカーナ」も参照
第2回のコンクール開催は前回の5年後、"Il Secolo" 紙ならびに "Il teatro illustrato" 誌の1888年7月1日号に告知された。募集要綱は前回とほぼ同様であったが、プッチーニ﹃妖精ヴィッリ﹄の影響もあってか、締切は前回の9か月後から延長されて11か月後の1889年5月31日、また﹁総譜は読みやすいように書かれるべきこと﹂なる条件が新たに加えられていた。ポンキエッリが1886年に死去していたこともあり、審査委員は前回に継続してのガッリ、プラタニアの他、作曲家ダルカイス[注釈 1]およびマルケッティ、ローマのサンタ・チェチーリア音楽院よりズガンバーティが招かれた。優勝賞金は3000リラに増額された。
応募総数73作の中から、ピエトロ・マスカーニの﹃カヴァレリア・ルスティカーナ﹄が圧倒的支持を受けて最優秀作品に選出された。