チャールズ・レニー・マッキントッシュ
チャールズ・レニー・マッキントッシュ | |
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生誕 |
1868年6月7日 スコットランド グラスゴー |
死没 |
1928年12月10日(60歳没) イングランド ロンドン |
国籍 | イギリス |
出身校 | グラスゴー美術学校 |
職業 | 建築家 |
建築物 |
グラスゴー美術学校 ウィロー・ティールーム ヒルハウス |
デザイン | ヒルハウス ラダーバックチェア |
チャールズ・レニー・マッキントッシュ︵Charles Rennie Mackintosh, 1868年6月7日 - 1928年12月10日︶は、スコットランドの建築家、デザイナー、画家。アーツ・アンド・クラフツ運動の推進者であり、スコットランドにおけるアール・ヌーヴォーの提唱者の一人でもある。
グラスゴー美術学校
ウィロー・ティールーム
ヒルハウス
チャールズ・レニー・マキントッシュは1868年6月7日、警察官の父ウィリアム・マッキントッシュと母マーガレット・レニーの四男としてスコットランド、グラスゴーに生まれた。幼少の頃より足と目に障害を持っていたが、スコットランドの風土に触れる機会には恵まれ、多くのスケッチを描いた。[要出典]
16歳の時︵1889年︶に、グラスゴーの建築家ジョン・ハッチソンの下に弟子入りし、同時にグラスゴー美術学校の夜間部にデザインとアートの勉強のため入学。在学中には多くの学校賞を受賞。後の妻となるマーガレット・マクドナルド、その妹であるフランセス・マクドナルド、そしてハニーマン&ケッピー事務所での同僚でもあるハーバート・マックニーと出会っている。チャールズを含むこの4人は、ザ・フォー︵The Four︶と呼ばれ、グラスゴー、ロンドン、ウィーンの各地で展覧会を開き、その評判はマッキントッシュの名声を確立させるに至った。いわゆる、﹁グラスゴー・スタイル﹂と呼ばれるこの展覧会は、ヨーロッパ各地でその後も開かれ、ウィーン分離派に影響を与えたと言われる。
1889年、ジョン・ハッチソンの事務所から、ハニーマン&ケッピー設計事務所︵1901年以後は、マッキントッシュのパートナーとなる。︶に移り、製図係として働く。1890年、アレクサンダー・トムスン旅行奨学金に応募しこれを獲得。翌1891年イタリア旅行に出かける。
27歳の若さで、母校でもあるグラスゴー美術学校の新校舎の設計コンペに優勝。グラスゴーのティー・ルーム(Willow Tea Room)のインテリアデザイン、ヒル・ハウスの設計などをした[1]。
当時、建築家としての名声が得られなかったマッキントッシュは、建築の仕事がなくなってしまい、後年南フランスに移り水彩画家に転向した。
1928年、喉の癌のためにロンドンで死去。クライズデール銀行が発行する100ポンド紙幣に肖像が使用されている。
クイーンズ・クロス・チャーチ
建築
●ライトハウス︵1893年︶
●グラスゴー美術学校︵1899年︶
●クイーンズ・クロス・チャーチ︵1897年︶
●デイリー・レコード・ビルディング︵1900年︶
●ハウス・フォー・アート・ラバー︵1900年、実現せず、1996年建設︶
●ウィロー・ティールームズ︵1903年︶
●ヒル・ハウス︵1904年︶- 日本建築の影響がみられる[2][3]
●フロレタイン・テラス︵1906年、現・ハンタリアン・アート・ギャラリー︶
●グラスゴー美術学校 図書館︵1909年︶
●78 Derngate (1917年)
家具