ウィーン分離派
ウィーン分離派︵ウィーンぶんりは、 独: Wiener Secession, Sezession︶ とは、1897年4月3日にウィーンで画家グスタフ・クリムトを中心に結成された新進芸術家のグループをいう。正式名称は、オーストリア造形芸術家協会︵Vereinigung bildender Künstler Österreichs︶[1]。
なお、﹁分離派︵セセッション︶﹂とは、19世紀の歴史絵画や伝統芸術からの分離をめざしたドイツ語圏の芸術家の動きである[2][3]。
ウィーン分離派は、独自の展示施設を持ち、独自に展覧会を開催した。クリムトらは分離派での活動を通して 新しい造形表現を追求した。ウィーンの分離派はミュンヘン分離派︵1892年︶の結成から大きな影響を受けているが、総合芸術を志向していた点に特徴がある。
セセッション館
1898年、﹁ヴェル・サクルム﹂創刊号には、作家ヘルマン・バールらも寄稿した。同年、第1回分離派展を開催。さらにウィーン市の土地を借り、実業家カール・ウィトゲンシュタイン︵哲学者ウィトゲンシュタインの父︶らの支援を受けて、専用の展示施設、セセッション館︵分離派会館︶を建設した。会員の建築家オルブリッヒの設計によるもので、入口上部には"DER ZEIT IHRE KUNST,DER KUNST IHRE FREIHEIT"︵時代には芸術を、芸術には自由を︶のモットーが掲げられた[注釈 1]
ウィーン分離派は、1898年からクリムト脱退の1905年までの期間に23回の展覧会を開催した。総合芸術を志向した分離派は、工芸品の展示も行い︵クンストラーハウスは絵画・彫刻のみで、工芸等の展示は行わなかった︶、会場のデザインをホフマンが手掛けた。
1903年、ホフマンとモーザーは、実業家フリッツ・ヴェルンドルファーの支援を受け、ウィーン工房の活動を始めたが、こうした総合芸術志向に対して、画家ヨーゼフ・エンゲルハルトら純粋芸術を志向する会員たちは不満を抱いていた。1905年、画家カール・モルがミートケ画廊の顧問となり、展覧会を企画したことを直接のきっかけとして、商業主義をめぐる論争が起こった。投票が行われた結果、モルをはじめ、クリムト、オットー・ワーグナー、ホフマン、オルブリッヒら24名は脱退した[9]。クリムトらは後にオーストリア芸術家連盟を結成した。
エンゲルハルトら残ったメンバーは胴体分離派と皮肉られた。その後も分離派の活動は続くが、美術史上に残るのは主として 1897年-1905年 の活動である。