デクスター・ゴードン
デクスター・ゴードン Dexter Gordon | |
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デクスター・ゴードン(1977年) | |
基本情報 | |
生誕 |
1923年2月27日 アメリカ合衆国 カリフォルニア州 ロサンゼルス |
死没 |
1990年4月25日(67歳没) アメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィア |
ジャンル | ジャズ、ビバップ、ハード・バップ |
職業 |
バンドリーダー サクソフォーン奏者 俳優 |
担当楽器 | テナー・サクソフォーン |
活動期間 | 1940年 - 1986年 |
レーベル |
サヴォイ・レコード ダイアル・レコード ブルーノート |
公式サイト | The Official Dexter Gordon Website |
デクスター・ゴードン︵Dexter Gordon、1923年2月27日 - 1990年4月25日︶は、アメリカ合衆国のジャズ・テナー・サクソフォーン奏者。
来歴[編集]
1923年に西海岸カリフォルニア州ロサンゼルス の中流階級家庭に生まれる。父は黒人の医師で秀才の誉れ高く、母はフランス系カナダ人の白人だった。1945年、デクスターはビリー・エクスタインのバンドを離れニューヨークに行く。1945年から1947年にかけてサヴォイ・レコードのためのレコーディング・セッションを行い、バド・パウエル、マックス・ローチ、アート・ブレイキーなどの敏腕プレイヤーと共演。その成果は、﹃デクスター・ライズ・アゲイン﹄、﹃ロング・トール・デックス﹄[1]といったアルバムに収められた。更に、1947年にはダイアル・レコードのためのセッションを行い、ワーデル・グレイとの双頭クインテットで﹃ザ・チェイス﹄などを吹きこむ。 1950年代は麻薬禍のため活動が低迷、大部分の期間を麻薬更生施設で過ごす。そんな中、1952年2月にはグレイとジーン・ノーマン主催のジャスト・ジャズ・コンサートに出演し、﹃ザ・チェイス﹄を再演。1955年にはケニー・ドリューらとの﹃ダディ・プレイズ・ザ・ホーン﹄︵Bethlehem︶や、カール・パーキンス (ピアニスト)らと﹃デクスター・ブロウズ・ホット・アンド・クール﹄︵Dootone︶などのアルバムを録音する。 1960年代初頭から1976年にかけて渡欧し、フランスやデンマークを拠点に活動する。この頃は再び音楽活動が軌道に乗った時期で、1962年にサイドメンとして参加した、ハービー・ハンコックの初リーダー作﹃テイキン・オフ﹄︵ブルーノート︶、1963年に再びパウエルらとパリで録音した﹃アワ・マン・イン・パリ﹄︵同︶、1967年7月にドリューとともに出演したコペンハーゲンのジャズクラブ﹁モンマルトル﹂でのライヴ﹃モンマルトル・コレクション﹄︵Black Lion︶などが名高い。 なお、ゴードンがデンマークのゲントフテに滞在していた頃、現地のジャズ・クラブのマスターで元テニス選手であったトルベン・ウルリッヒと親しくなり、トルベンの息子の代父となる。その息子は、後にメタリカのドラマーとして成功を収めるラーズ・ウルリッヒであった[2]。 1976年にはアメリカに戻り、殿堂ヴィレッジ・ヴァンガードでコンサートを行った。後に有名サックス奏者となるジョー・ロヴァーノはこの時の演奏を生で聴いており、﹁私をサックス奏者として最も向上させてくれた経験だった﹂と述懐している。1986年には映画﹃ラウンド・ミッドナイト﹄で主役を務め、アカデミー主演男優賞にノミネートされた。また、ロバート・デ・ニーロが主演した1990年のアメリカ映画﹃レナードの朝﹄︵原題‥Awakenings︶にも出演し、ピアノで﹁デクスターズ・チューン﹂を演奏している。 1990年4月25日、ペンシルベニア州フィラデルフィアで亡くなる。67歳だった。関連項目[編集]
脚注[編集]
- ^ http://www.bbc.co.uk/music/tracks/nnmjp9
- ^ メタリカ公式サイト内バイオグラフィー(2011年3月14日時点のアーカイブ)参照