ノート:三国志 (歴史書)
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記事名について[編集]
歴史書である三国志を三国志というべきだと思います。
>日本では吉川英治の演義を元にした﹃三国志﹄があまりにも有名になったため演義を﹃三国志﹄、陳寿の方を﹃正史﹄などと呼んで区別する。
この書き方だと﹁正史=三国志﹂と考える人がいる可能性があります。
正史には三国志以外のものもあるので、この書き方は変えた方が良いと思うのですが。
中国では三国志と呼んで指すのは歴史書の三国志だと思います。日本で三国志演義と呼ばれているのは、中国では三国演義だったり三国志通俗演義ですし。記事名も正史は付けずに三国志と変えた方が良いと思うのですが、少し現在の状況では無理なようですね。何か良い方法を誰か考えてください。これからは、歴史書の三国志を三国志と呼び三国志から派生したものに何かを付け足して呼ぶようにしていった方が良いと思います。演義を三国志とは呼ばず﹁三国演義﹂とか﹁三国志通俗演義﹂と呼んだり、吉川英治の三国志なら﹁吉川三国志﹂とか。本の名前に三国志と付いていたり、ちくま文庫の日本語訳が﹁正史三国志﹂と付いていたりするのですが・・・
--以上の署名のないコメントは、211.130.242.118︵会話︶さんが 2004年2月27日 (金) 04:05 (UTC) に投稿したものです︵砂菱潜之︵会話︶による付記︶。
『三国志』の「志」って何でしょうか[編集]
じつは﹁志﹂は﹁誌﹂と同じであり、﹁誌﹂は﹁しるス﹂と読みます(cf﹁雑誌(いろんなことを﹁誌﹂したもの)﹂)。そういや﹁演義﹂ってどういう意味(なんで﹁物語﹂の意味になるの)?﹁義を演(の)べる﹂? --以上の署名のないコメントは、219.25.162.93︵会話︶さんが 2005年5月1日 (日) 04:58 (UTC) に投稿したものです︵砂菱潜之︵会話︶による付記︶。
﹁演義﹂はご指摘通り本来の意味は﹁義を演べる﹂の意かと。﹁義﹂はこの場合は筋道とかそういう意味で、本来は事実を分かりやすく述べることを指してます。そこから転じて、歴史を興味深く通俗的に書いた小説を指すようになったようですね。
﹁志﹂は正史では主に職官志、地理志等々、制度とかを記す書に用いられますね。確かに正史のタイトルで﹁志﹂を使っているのは三国志ぐらいですが、多分三国それぞれを独立した形で記すという他にはない事情からある意味苦し紛れに使っているのではないかと……。Nukkie 2005年5月2日 (月) 02:05 (UTC)
統合の提案について[編集]
三国志:ノートをご覧ください。siyajkak 2005年8月6日 (土) 14:38(UTC)
三国志の成り立ちについて[編集]
本文中に、
﹁三国の記述を独立させ、合わせて﹃三国志﹄としたところに本書の特徴がある。また、三国がそれぞれ﹃魏国志﹄﹃蜀国志﹄﹃呉国志﹄として、独立した書物としても扱われていたという。﹂
とありますが、私の手持ちの本では、﹁そもそも陳寿の﹃三国志﹄は﹃魏国志﹄﹃蜀国志﹄﹃呉国志﹄として独立していたが、北宋の咸平6年︵1003年︶、国子監で起刊された際に初めて﹃三国志﹄として合刻された。﹂︵文章は問題点が分かり易いように書き換えてます。︶としています。
ちなみにその本は、徳間書店の正史三国志英傑伝Ⅰ︵1994年発行︶で、問題としている箇所の執筆担当者は丸山松幸氏・立間祥介氏です。
学術書ではない一冊の本の記述だけで、既述の内容に変えてしまうのは抵抗があるため、どなたかご意見をお寄せ下さい。
他の資料をあたった上で、後者の説が正しいと判断でき、かつ、しばらくしても他の方の意見が寄せられないようなら、訂正します。--甲斐援隊員G 2006年6月15日 (木) 15:41 (UTC)
甲斐援隊員Gさんがご指摘されていた件ですが、この本文の文章はいわゆる﹁ちくま正史三国志﹂の魏書1︵参考文献に記載︶の解説に掲載されている訳者・今鷹真氏の説を取ったものと思われます。概要は、
(一)﹃三国志﹄には全体の目録がなく、﹃魏書﹄﹃蜀書﹄﹃呉書﹄の巻頭にそれぞれ次のような目録が陳寿の署名つきで置かれていること。﹃魏書 巻第一 武帝 躁﹄~﹃蜀書 巻第一 劉二牧 劉焉 子璋﹄~﹃呉書 巻第一 孫堅 孫策﹄︵紹煕本参照︶。
(二)にも関わらず、本文前のタイトルは﹃武帝紀第一 魏書 國志一﹄~﹃劉二牧傳第一 蜀書 國志三十一﹄~﹃孫破虜討逆傳第一 呉書 國志四十六﹄等と、﹁紀﹂﹁傳︵伝︶﹂の記述と全体の連番が付され、三書合わせて完全な書物になること表そうとしていること︵つまり、目次と章タイトルが一致していない︶。
(三)﹃隋書﹄経籍志では史部・正史類に﹃三国志六十五巻﹄と一纏めにされている一方、﹃旧唐書﹄経籍志と﹃新唐書﹄芸文志では史部・正史類に﹃魏国志三十巻﹄が、同・偽史類に﹃蜀国志十五巻、呉国志二十一巻﹄︵原文のとおり︶が記載され、独立した扱いになっていること。
(四)本来は﹃三国志﹄で一纏めだが、それぞれ独立した書物として取り扱うこともできた。
です。丸山氏らの説が正しいとすると、656年に完成しているはずの﹃隋書﹄経籍志に﹃三国志﹄の名が見えるのはおかしいです。合刻があったとしても、遅くても唐代にはなされていたとみるべきだと思います。今鷹氏は、これは﹁おそらく陳寿の原本からそうなっていたと考えられ、︵中略︶︵蜀漢の立場を微妙に持ち上げるための︶陳寿の配慮を読みとることができるであろう。﹂と記しております。…ということで、日本語として若干洗練されていないような感じはしますが、本文の大幅な変更は必要ないと個人的には考えます。--Crystaltear 2006年8月16日 (水) 23:54 (UTC)
『史通』曲筆篇について[編集]
﹃史通﹄曲筆篇のうち、陳寿を批判した箇所は以下の通りです。
陳氏︽國志·劉後主傳︾云‥﹁蜀無史職,故災祥靡聞﹂。
案黃氣見於姊歸︵拙注:先主伝︶,群鳥墮於江水︵拙注:後主伝裴注所引・漢晋春秋︶,
成都言有景星出︵拙注:後主伝︶,益州言無宰相氣︵拙注:費禕伝︶。
若史官不置,此事從何而書? 蓋由父辱受髡,故加茲謗議者也。
陳寿が蜀に史官がいなかったことを後主伝で指摘したのに対し、劉知幾は﹁蜀に史官がいたはずだ﹂と述べたと解釈するほうが適当かと思われます。--Fish40 2009年8月30日 (日) 03:03 (UTC)
保護しました[編集]
編集合戦とみなし、保護としました。記述に対する出典の明記に努めてください。ほかの利用者に対して揶揄するようなコメント、要約欄への記述は、まったく無益で無意味なものであり、ウィキペディアの理念にも反します。編集される方、議論される方はご留意いただいたうえでお願いします。--海獺 2012年2月3日 (金) 01:47 (UTC)
出典を明記しましょう[編集]
なぜ﹁三国志 (歴史書)﹂ともあろう記事に出典らしい出典がないのでしょうか。編集合戦する以前に、信頼のできる情報源を提示した執筆をおこない、編集合戦の起こらない記事にすべきです。出典のある文章であれば、誰も書きかえはしないはずです。どういう書き方がダメかと言いますと、とりあえず﹁~という。﹂﹁~とされている。﹂﹁~にしていることが明らかとなっている﹂﹁どの研究者も一致している。﹂など、﹁誰が?﹂﹁何が?﹂﹁どこで?﹂と聞きたくなるような文章の終わらせ方はダメです。そういう終わらせ方をした場合は必ず脚注をつけて情報源を提示すべきです。--トムル 2012年2月16日 (木) 07:17 (UTC)
倭国関係の記事の信憑性を疑う人が、三国志そのものの信憑性を否定する編集を行っているように見えます。 --ねこぱんだ 2012年2月16日 (木) 07:46 (UTC)
●︵報告︶最近編集に参加されていたTikokさん、不見乃さん、Rkrkgnさんの3名が多重アカウントとしてブロックされています。--Aquamarin456 2012年2月16日 (木) 12:05 (UTC)
トムルさんのおっしゃることは正論ですので、少しずつでもよいので適正な出典に基づき適切に出典明記をしていけばよいのです。﹁魏略﹂との関係については、山尾幸久が﹃魏志倭人伝﹄の中で書いていたような気もしますが、機会があれば私も何カ所かは探してみます。--ろう(Law soma) DC2012年2月17日 (金) 00:59 (UTC)
いちばん手近にあって基本的なものが、中華書局版の﹃出版説明﹄なので、そこを参考しながら、出典を明記していこうかと思います。 --ねこぱんだ 2012年2月17日 (金) 01:24 (UTC)
魏蜀呉三国の排列について[編集]
魏書・蜀書・呉書といふ従前の排列について、蜀書を先に魏書を後に変更した版を取り消しました。
三国志内に於いて三国の排列は、本紀を立てる魏書を先頭にするのが伝統的一般的で、新唐書藝文志や四庫全書総目提要でも正史の排列として確立してをり、現代日本の訳書でも踏襲されてゐます。単なる蜀漢贔屓で蜀書を先頭へ変更してゐるのでしたら已めてください。何らかの根拠に基づくのでしたら、その旨を記載してください。--砂菱潜之︵会話︶ 2021年9月2日 (木) 14:44 (UTC)
書か、志か[編集]
今更な質問かとも存じますが、このページを含む多くのwikipediaのページで﹁魏・蜀・呉書﹂表記より、﹁魏・蜀・呉志﹂表記が優先されている論拠はなんでしょう? ﹁志﹂表記の存在そのものを否定するわけではありませんが、三国志原典も、邦訳のスタンダードであろうちくま正史も﹁書﹂表記です。それを差し置いて﹃本邦においては﹁志﹂の方がスタンダード﹄と万民を納得させるには相応の論拠が必要だと思うのですが、現状出典明記すらない有様とはいかがなものか、と。例え魏書や呉書だと他の書名と被るからと言って勝手に、論拠なく書名を変えていい理由にはならないはずです。--narumi︵会話︶ 2021年9月5日 (日) 14:50 (UTC)
﹃三国志﹄について﹁某書﹂﹁某志﹂の表記融例は、中文版でも混用されてるみたいなので、程度はともかく日本のみの事象ではないはずです。
﹁某国志﹂といふ表題は、既に裴松之の時代から見える表記で、陳寿の原題でない通称だとしても歴史は相当に古くて、合刻の際の表題﹁三国志﹂としては主流となり、各書﹁某国志﹂﹁某志﹂も後代に広く使はれてます。紀と伝のみで志を闕くのに何故﹃三国﹁志﹂﹄と言ふのか?といふ議論も当然に起こってゐますけど、とにかく定着はしてます。
本来の表題と異なるといふ観点では、例へば﹃太史公書﹄にしろ﹃梁唐晋漢周書﹄にしろ、殆ど全て通称の﹃史記﹄﹃旧五代史﹄と表記されますけど、これらを原題に更改せよといふ意見は少ないと思ひます。
﹃三国志﹄についても、広く使はれる通称を殊更に排除しなくても良いのではないでせうか。少なくとも現代の記者たちは、自分勝手に書を志に替へてゐるのではなく、伝統的に書とも志とも綴る所で後者を採ってるに過ぎません。それは正統ではないかもしれませんが、過失といふほどでもないでせう、許容の範疇かと思はれます。--砂菱潜之︵会話︶ 2021年9月6日 (月) 20:06 (UTC)
>﹃三国志﹄について﹁某書﹂﹁某志﹂の表記融例は、中文版でも混用されてるみたいなので、程度はともかく日本のみの事象ではないはずです。
他国語版で混用されていることが日本語版で混用していい理由にはなりません。
>例へば﹃太史公書﹄にしろ﹃梁唐晋漢周書﹄にしろ、殆ど全て通称の﹃史記﹄﹃旧五代史﹄と表記されますけど、これらを原題に更改せよといふ意見は少ないと思ひます。
﹃太史公書﹄より﹃史記﹄のがポピュラーという出典はいくらでもあります。史記の項の関連文献の表記からして﹃史記﹄しかありません。﹃魏・蜀・呉志﹄もそれと同等というなら、同等の出典が必要です。私はそれは、同等ではないと思います。﹁蜀志という言い方もする﹂と、﹁蜀志の方がwikipediaで表記するに相応しいポピュラーなものである﹂は別問題であり、かつ後者を押し通すなら相応の出典が必要ということです。--narumi︵会話︶ 2021年9月7日 (火) 07:35 (UTC)
他国語版、殊に中文版で混用されてゐるものなら、日本語版のみ一方に統一しなければいけないといふ主張に、積極的正当性が認められません。
ポピュラーといふ説明では、第一位のみを採り、第二位以下を排除するといふ理由になりません。﹁某書﹂が第一位としてポピュラーなら、﹁某志﹂も第二位としてポピュラーです。記事名であれば一つに絞る必要が有りますけど、記事内で単語を一つに絞った例が有るなら挙げてください。
例へば、﹁李氏朝鮮﹂については、﹁李朝﹂﹁朝鮮王朝﹂﹁朝鮮国﹂﹁朝鮮﹂等と種々の記事で様々に表記されますが、これらを統一するべきだといふ意見は管見寡聞の限り知りません。
例へば、﹁日本﹂の正式な国号は﹁日本国﹂ですが、多くの記事で﹁日本﹂と表記されます。ポピュラーといふ観点では﹁日本国﹂といふ表記を排除して﹁日本﹂に改めるべきですし、正称に拘るなら多数の﹁日本﹂に﹁国﹂を付与しないといけなくなります。
日本語では、一つの事物について複数の表記が混在するのは普通のことであり、萬人の記者にそれらを統一せしめて記述させるのは、検索の便利でもあり理想かもしれませんが、現実的には無理だと思ひます。当記事の﹁志﹂を﹁書﹂に改めて、それだけで終了でせうか。三国志に関聯する全ての記事を機械的に変更して、更に以降も監視して統一させるのでせうか。それまでのコストをこの単語のみに注ぎ、他の揺れの有る名称は放っておくのでせうか。
全く無意味な営為とは言ひませんけど、極めて有意義な提案とは思ひません。
Wikipedia:記事名の付け方の方針をWikipedia:表記ガイドへ過剰適用してをられるやうに受け取れます。--砂菱潜之︵会話︶ 2021年9月9日 (木) 14:39 (UTC)
例えについては二つ申し上げます。一.太史公書より史記のがポピュラーという出典はあるでしょう。日本国より日本のがポピュラーという出典はあるでしょう。蜀書より蜀志よりのがポピュラーという論拠を示さず他の例を持ち出すのは、例として不適切です。二.他の例がこうだからこのページも、この表記もこれでいいのだというのは論拠にはなりません。蜀書でなく蜀志の表記を取るのが百科事典として適切かどうかに絞って話をしてください。以降、例え話についての返信は致しかねます。
まず、百科事典であるからには表記は統一されるのが理想ということはご理解いただけるかと思います。少なくとも一記事内においては統一されるべきありましょう(これは概ね成されているとは思います)。一方、﹁現実的には無理﹂とまで放棄するかはともかく、私も即座に統一の指針を設け全記事を統一すべきという急進的な思想を持っているわけではございません。ただ、指針がないままに各人が書表記と志表記で記事作成を続けることは、どこかで編集合戦のような衝突の危険を孕んではいないかと危惧するものです。その主張、そして議論に参加する者が増え指針が設けられるのならばそれに越したことはないという考えはそのままですが、﹁2名で議論を続けることは有為ではなく、かつ現段階では議論を呼びかけるほどでもない﹂ということについては認め、一旦角を折りたいと言いますがそれで宜しいでしょうか。
また願わくば、ここへの返信は割愛しても構いませんのでその分のコストを用い、﹃魏・蜀・呉志﹄と呼ぶことに出典を加筆いただければ幸いです。--narumi︵会話︶ 2021年9月9日 (木) 16:47 (UTC)
演義との混同の経緯[編集]
現行の記述では正史と演義の混同は日本において初めて起こった事象のように書かれていますが、中国で先行して混同されていた状態で日本が演義を受容したのが原因ですよね。中国では後に「三国演義」という呼び方を「発明」して混同を解消していますが。
この辺の事情を三国志_(歴史書)#『三国志』と『三国志演義』に書いたらリバートされたみたいなので、一応確認しておきます。
2407:C800:6F11:101:E03B:B9AF:D929:A8AD 2023年4月4日 (火) 12:50 (UTC)