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ノート:三河国

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三河守などについて[編集]


14.132.52.1115.39.236.125180.197.74.236

(一)姿

(二)

(三)180.197.74.236

(四)

--Saigen Jiro 2012314 () 15:12 (UTC)[]









簿

 

  6153726136711424391229   1996   1956 
〔釈文〕 
三川国松平号徳川源イ藤家康 同九十二廿九、同日参河守、永禄11月日左京大夫、 
 (史料編纂所史料集発刊100周年記念『時を超えて語るもの』所収)

姿

--180.197.138.218 2012315 () 05:29 (UTC)[]



Hkusanowikipedia

ID:41623197 wikipedia姿



--Saigen Jiro 2012315 () 12:44 (UTC)[]

:#

XX--Hkusano 2012315 () 13:19 (UTC)[]

1姿  14712004

180.197.138.2181姿稿WikipediaWikipedia:使LTA:OTASUKE-- 2012319 () 14:57 (UTC)[]

--Saigen Jiro 2012319 () 15:24 (UTC)[]

「三河国司」への記事分割提案[編集]


  Wikipedia:#:#-- 2012318 () 03:47 (UTC)[]

水野元綱の件[編集]


4

:14.132.58.243西

 6111606618161620415114216456282

-- 2012519 () 05:00 (UTC)[]

. 51562415996982091112161620006150009

1





  4(1658)  1   1

--14.132.58.243 2012519 () 06:07 (UTC)[]
まったく貴方の早合点というか理解力の欠如というか驚きです。水野分長の貰った1万5千石と長男・元綱の賜った1万石余は別物で、その時点で別家になったことが理解できないのですか?もう一度『寛政重修諸家譜』を読み直して見て下さい。父・分長死後に安房・上総の1万5千石は嗣ぐべき男子無きにより収公されましたが、水野元綱の系統はその子元知が発狂して改易になるまで続き「安中藩」と呼ばれています(日本史辞典にも掲載されてます)。元知改易以降のこの家は2千石の旗本水野右近家に縮小しましたが、あくまで独立の家(直参旗本)であって陪臣の扱いじゃありませんよ。付け家老だったのは水野分長の一代のみです。よく確認してください。--故城一片之月会話2012年5月19日 (土) 09:17 (UTC)[返信]
議論の主題と関係のない、他の藩の削除は復帰いたしました。また、 2012年5月20日 (土) 03:30(utc)までに、「新城藩と水野元綱系大名の存在」が架空であったとする、14.132.58.243さんの主張を裏付ける出典資料を具体的に提示されない場合は、「江戸時代の藩」の節に新城藩の記述を復帰いたします。--故城一片之月会話2012年5月19日 (土) 10:49 (UTC)[返信]
「新城藩」部分の記述を復帰しました。--故城一片之月会話2012年5月20日 (日) 06:55 (UTC)[返信]

西三河・東三河の件[編集]


西西21849稿

西西

515621113西

西西西

715646221998西西  6  19832-- 2013329 () 17:16 (UTC)[]