ノート:無量寿経
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「浄土真宗では、『唯除五逆誹謗正法』の句は削除されている。」等の記述について[編集]
●一部の編集者による﹁浄土真宗では、﹃唯除五逆誹謗正法﹄の句は削除されている﹂等の記述は、完全に誤った記述である為、それらの記述はあらし行為であると考えます。
●理由…下記の浄土真宗の聖典︵本願寺派﹃浄土真宗聖典﹄︿本願寺出版社﹀、大谷派﹃真宗聖典﹄︿東本願寺出版部﹀︶に、﹁唯除五逆誹謗正法﹂の句は明記されています。
﹃浄土真宗聖典︵原典版︶﹄P-22より、﹁設我得仏十方衆生至心信楽欲生我国乃至十念若不生者不取正覚唯除五逆誹謗正法﹂。
﹃浄土真宗聖典︵註釈版︶第二版﹄P-18より、﹁︵18︶ たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽してわが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。﹂
﹃真宗聖典﹄P-18より、︵漢文︶﹁設我得佛、十方衆生、至心信樂、欲生我國、乃至十念。若不生者、不取正覺。唯除五逆 誹謗正法。﹂、同P-18より、︵延書︶﹁十八 たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。もし生まれずは、正覚を取らじ。唯五逆と正法を誹謗せんをば除く。﹂
下記のHPを参照すれば、上記聖典がネット上に公開されています。
●浄土真宗聖典電子化計画‐WikiArc ﹇本願寺派︵底本﹃浄土真宗聖典︵註釈版第二版︶﹄︿本願寺出版社﹀︶﹈
●聖教電子化研究会﹇大谷派︵底本﹃真宗聖典﹄︿東本願寺出版部﹀︶﹈--Resto1578 2008年3月2日 (日) 13:20 (UTC)
無量寿経経典成立時期と創作者について[編集]
無量寿経経典成立時期と創作者1[編集]
解決済み新たな話題については「#無量寿経経典成立時期と創作者2」を参照してください。--Resto1578 2010年12月13日 (月) 20:34 (UTC)
無量寿経経典成立時期と創作者について記述したいと思います。
信仰上は釈尊自説となっていますが、学問上は、現代、釈尊滅後約500年、無名の創作者によるものですね。
参考文献・元、龍谷大学学長、信楽峻麿述、1982年3月、仏教文化研究所紀要、第20集﹃阿弥陀仏論﹄・同者述、2002年1月、真宗研究、第46輯﹃現代真宗真偽論﹄︶--218.223.121.10 2009年7月25日 (土) 00:49 (UTC)
コメント
こんにちは、Resto1578と申します。
釈尊は教えを文字に残してはいないので﹁経典﹂は、﹁如是我聞﹂・﹁我聞如是﹂で始まる﹁聞書き﹂です︵のはずです。︿原始経典・上座部経典は、知識がありません。﹀︶。﹁無名の創作者によるもの﹂という表現には疑問が残ります。
問題となるのは、内容が仏教︵つまり仏陀の説く教え︶ではなく、道教・儒教・バラモン教などの影響を強くうけた﹁偽経﹂とされる経典類については問題となると思います。
質問 信楽峻麿氏が、学問上は﹁無量寿経﹂などは無名の創作者によると、そのように述べたのでしょうか?
残念ながら参考文献として挙げられた書籍は、国立国会図書館には蔵書されておらず読むことができません。また、仏教文化研究所のウェブサイトでも公開されていませんでした。参考文献を参照できるウェブサイトは無いのでしょうか?もしくは、︵長文でなければ︶引用した原文を掲載できないでしょうか?--Resto1578 2009年7月25日 (土) 17:08 (UTC)
[[1]]の中の阿弥陀仏論にあります。
以下その中の文章です。
なおまた、この阿弥陀仏思想が、いつごろ、どのようにして成立したかについては、それを解明する客観的な資料がとぼしく、種々の問題が残るところである。しかし、現在にいたる研究成果によれば、この阿弥陀仏思想は、大乗仏教興起の初頭、紀元一世紀のころに成立したものと考えられ、またその成立事情については、多くの異説が存在するが、それらを整理すると、インド以外の外来思想にもとずくとする説、インドのヴエーダ神話にもとずくとする説、仏教内の神話にもとずくとする説、および釈尊観の展開にもとずくとする説がある。その中でも最も妥当な見解としては、インド内外の諸思想の影響を認めつつも、基本的には、釈尊観の展開によるとする説であろう。すなわち、原始仏教以来の釈尊観の発展や、法蔵菩薩説話における仏伝の投影などからすれば、この阿弥陀仏思想は、基本的には、大乗仏教における菩薩思想の深化の中で、釈尊観の展開として、生成、発展してきたものと理解されるのである。
同者述、2002年1月、真宗研究、第46輯﹃現代真宗真偽論﹄︶--の文章を紹介します。
209ページに﹁阿弥陀仏思想の成立がそうです。誰がこの﹃無量寿経﹄を作成したかはわかりません。釈尊が説いたということになっているが、彼が亡くなって500年の後に成立したものです。﹂とあります。--203.148.105.196 2009年7月26日 (日) 06:34 (UTC)
お礼
出典の提示ありがとうございました。
独自研究?
﹁無名の創作者による﹂という記述は、Wikipedia:独自研究は載せないの方針に抵触する記述と考えますが、いかがでしょうか?
Wikipediaは、Wikipedia:検証可能性・他の多くの辞典がそうであるように﹁検証主義﹂です。上記出典の﹃無量寿経﹄の確立に関する部分を読む限り、﹁無名の創作者による﹂という記述は検証できていない記述であり、本文に掲載するのは妥当ではないと考えます。
一般に︵大乗仏教の観点からの︶大乗経典は、﹁創作﹂とは呼ばず、﹁編纂﹂もしくは﹁確立﹂・﹁成立﹂と定義するものと考えます。ゆえにサンスクリット原典が発見されていない﹃観無量寿経﹄も、浄土教系仏教では﹁偽経﹂とせず、﹁佛説﹂︵釈迦が自らの口から直接説いた教え︿﹃大辞林﹄第二版﹀ ︶としています。
署名についてのお願い
あと、ノートページの署名は﹁文末に署名をお願いします︵--Resto1578 2009年7月26日 (日) 15:11 (UTC) と記入、または右から2番目のアイコンをクリック︶。エチケットも忘れずに。﹂とあります。203.148.105.196さんは冒頭に署名をなされますが、スタイルが崩れてしまっています。文末にお願いします。項目︵本文︶の編集は、署名は不要です。
本来﹁署名についてのお願い﹂のようなコメントは、利用者のノートページに記入すべき事柄なので、できることならIDを取得しログインすることをお勧めします︵Help:ログインを参照してください。︶。
浄土教系仏教に見識をお持ちのようなので、私を含めた利用者からコメントをお願いする際にも助かります。よろしくお願い致します。--Resto1578 2009年7月26日 (日) 15:11 (UTC)
コメント
本願寺派、教学本部編﹃伝道﹄29号80ページの北海道大学藤田宏達教授の論の、﹁原始仏教とは、一般に釈尊時代より部派に分裂するまでの仏教をさすが、この時代には、阿弥陀仏や極楽浄土の観念、あるいはその浄土に往生するという思想は存在しなかった﹂から、﹁﹃無量寿経﹄は、釈尊自説でなく、無名の創作者の創作。﹂とするのは、4680jinさんの独自研究に当ると考えます。︵大乗仏教#﹁大乗非仏説﹂論を参照してください。︶
上記の出典からは﹁仏教学者の藤田宏達によると原始仏教では、阿弥陀仏、極楽浄土の観念、浄土思想が存在しなかったとしている。﹂と引用するのが妥当かと存じます。
もしくは本項目に、﹁﹁大乗非仏説﹂論﹂を参照先に追記するのはいかがでしょうか?--Resto1578 2009年7月29日 (水) 17:12 (UTC)・︵インデント修正︶--Resto1578 2010年12月13日 (月) 20:34 (UTC)
無量寿経経典成立時期と創作者2[編集]
三大方針︵﹁中立的な観点﹂・﹁検証可能性﹂・﹁独自研究は載せない﹂︶遵守のお願い。 編集合戦回避のため﹁経典成立時期と編纂者﹂の説に加筆する際は、加筆する際に用いた出典の明示をお願いします。 また大乗仏教の経典群全般について述べることができる記述は、中立的な観点や内容が重複するのを避けるため﹁無量寿経#経典成立時期と編纂者﹂ではなく﹁仏教#﹁大乗非仏説﹂論﹂に加筆するのが望ましいと考えます。--Resto1578 2010年12月13日 (月) 20:34 (UTC)「中国語訳」のセクション名について[編集]
解決済みResto1578 2009年9月8日 (火) 00:20 (UTC)
中村 元・早島鏡正・紀野一義 訳注 ﹃浄土三部経﹄下、岩波書店︿岩波文庫 青306-2﹀、1990年、P.192文献︵無量寿経︶﹁中国語訳﹂では、﹁﹃無量清浄平等覚経﹄四巻︵﹃平等覚経﹄︶ともいう。便宜上、本書において﹁漢訳﹂の略号を使う。﹂︵早島の記述、中村による加筆︶とあり、一般にも﹁漢訳本﹂︵﹃平等覚経﹄︶との区別のためそのように異訳本を区別する。この本による記述が間違いであるというのであれば、その間違いを明記した出典を明記して下さい。--Resto1578 2009年7月25日 (土) 15:23 (UTC)
参考文献の欄に、文献の説明以外の記述は行わないようにお願いします。--Resto1578 2009年7月25日 (土) 15:31 (UTC)
補助メモ
Wikipediaの﹁中国語﹂の定義と中期漢語のセクションを参照してみてください。
広辞苑︵第五版︶
漢語 - 1.﹁漢字音から成る語。漢字の熟語。⇔和語。﹂2.﹁漢民族の言語。中国語。﹂--Resto1578 2009年7月25日 (土) 17:08 (UTC)
yahoo大辞泉﹁かんぶん︻漢文︼1中国古来の文語体の文章を日本でいう称。﹂
yahoo大辞林﹁かんぶん︻漢文︼﹇1﹈ 現代中国語の文章に対して、古い中国の文章。﹂
本経典は文語体訳なので、漢文であり中国語ではないことは明らかである。岩波文庫には誤って﹁中国語訳﹂とあるが、他書で﹁漢文による訳﹂との記載はすぐに見つかるはずであり、識者の検索を待ちたい。また本経典に限らず一般的に文語は﹁漢文﹂と呼ばれ﹁中国語﹂と呼ばれないから、一岩波の意向を尊重する必要は全く無い。--以上の署名のないコメントは、219.104.16.119︵会話/Whois︶さんが 2009年7月27日 (月) 18:31 (UTC) に投稿したものです。
コメント
yahoo大辞泉﹁かんぶん︻漢文︼﹂に
2日本人が1に倣って書いた文章。
3中国の漢の時代の文章。
と1の他に、2つの語意があるのを忘れていませんか?この2つの語意との混同する事をさけるため、あえて﹁中国語訳﹂と早島・中村の両仏教学者はしているものと考えます。また﹁岩波の意向を尊重する必要は全く無い。﹂等の発言は、Wikipediaでは不用意な発言です。︵Wikipedia:礼儀を忘れないなどを参照してください。︶よろしくお願いします。--Resto1578 2009年7月27日 (月) 22:26 (UTC)
コメント
yahoo大辞泉﹁かんやく︻漢訳︼﹂
﹇名﹈︵スル︶漢文に翻訳すること。また、訳したもの。﹁―された仏典﹂
Wikipedia漢訳
漢訳︵かんやく︶は、漢字文化圏に外側から入ってきた文章や、概念などを漢文・漢語へと翻訳を行なうことである。
とあります。
﹃岩波仏教辞典﹄P.995﹁無量寿経﹂
︵略︶曹魏の康僧鎧の訳とされるが、漢訳は本書を含め、古来五存七欠十二訳といわれ、︵後略︶
としています。
﹃仏説無量清浄平等覚経﹄の略称の﹁漢訳﹂に﹁<ref name="kanyaku">漢訳…ここでは﹃仏説無量清浄平等覚経﹄4巻のことを﹁漢訳﹂と略称する。後'''漢'''の時代の'''訳'''の意。</ref>﹂と脚注を入れました。
辞書・辞典を参照すると、﹁漢訳﹂が一番中立的な表現と考えます。--Resto1578 2009年7月27日 (月) 23:01 (UTC)
補足
2005年7月6日 (水) 06:29の版まで﹁漢訳﹂としていました。--Resto1578 2009年7月28日 (火) 00:05 (UTC)
コメント
﹁漢訳﹂は賛成ですが、﹁中立的﹂ではありません。漢訳は﹁漢文に訳すること﹂であって﹁中国語に訳すること﹂ではありませんから、﹁中国語訳﹂の主張は明確に否定されています。よって支持します。
﹁漢文に、2日本人が1に倣って書いた文章。3中国の漢の時代の文章。混同する事をさけるため、あえて﹁中国語訳﹂と早島・中村の両仏教学者はしている﹂というのは個人的言説に過ぎません。なぜなら﹁漢訳﹂にも﹁漢代の訳﹂の意味があり、混同するならば同じことなのです。早島・中村両氏が混同を避ける意図を持っていたというのは全く根拠のない想像です。--以上の署名のないコメントは、219.104.16.119︵会話/Whois︶さんが 2009年8月1日 (土) 08:45 に投稿したものです。
コメント
何か勘違いをされているようですが、わたしは、﹁あえて﹃中国語訳﹄と早島・中村の両仏教学者はしているものと考えます。Wikipdeiaでは検証可能性の面で言えば﹁中国語訳﹂として検証可能な書籍﹃浄土三部経﹄下、岩波書店から引用したので、条件を満たしています。﹁早島・中村両氏が混同を避ける意図を持っていたというのは全く根拠のない想像です。﹂とIPユーザーさんは仰いますが、私はそのような意図で早島・中村両氏がもちいたのではとノートページにおいて推論したまでで本文意には反映していません。
項目に掲載することと、ノートページでの発言では︵あまりに身勝手な発言は削除方針に抵触すると思いますが︶こと異なることに理解いただくようにおねがいします。
報告
﹁漢訳﹂にも﹁漢代の訳﹂の意味があり、混同するならば同じことについて
﹃仏説無量清浄平等覚経﹄の略称の﹁漢訳﹂に﹁<ref name="kanyaku">漢訳…ここでは﹃仏説無量清浄平等覚経﹄4巻のことを﹁漢訳﹂と略称する。後'''漢'''の時代の'''訳'''の意。</ref>﹂と脚注を入れました。と略注を挿入する事で対処しています。
Wikipedia
中立的な観点について
yahoo大辞泉﹁かんやく︻漢訳︼﹂
﹇名﹈︵スル︶漢文に翻訳すること。また、訳したもの。﹁―された仏典﹂
と辞書にあり、中立的な観点について問題は存在しないかと存じます。
賛成 ︵提案者票︶﹁中国語訳﹂から﹁漢訳﹂とサブセクション名の変更に賛成します。
済
﹁中国語訳﹂を﹁漢訳﹂と変更することで賛成2名・反対0名が得られたと考えます、よって議論を終了したいと存じます。ありがとうございました。--Resto1578 2009年8月1日 (土) 14:58 (UTC)
コメント
議論終了は少々お待ち下さい。1、中立的について。辞書などから﹁漢訳﹂と﹁漢文訳﹂が同義であることは明らかですから、﹁漢訳﹂は﹁中国語訳﹂と﹁漢文訳﹂との間の中立でないことは明らかです。中立的と呼ぶよりも客観的と呼ぶほうが正しいでしょう。つまりこの議論では﹁中国語訳﹂の正当性は客観的に否定されたわけです。2、﹁何か勘違いをされているようです﹂は礼儀を失するものです。それに対して岩波文庫の﹁中国語訳﹂の記述は辞書や世間一般の伝統的用法と異なる特殊なものですから、﹁一岩波の意向﹂と呼ばれても仕方のないものです。そして辞書や伝統と異なる特殊な岩波の記述を引用することは、岩波の意向を尊重したと解釈されるのが妥当であり、他にその特殊性は解釈のしようが有りません。従って礼を失していません。3、﹁早島・中村両氏の意図を推論したまでで本文意は反映していません﹂とのことですが、ノートに推論を書けば当然ノートで推論に根拠なしと批判する人が現れるので、勘違いとか失礼な言い方はやめて下さい。
以上で全てはっきりしましたので議論終了で良いです。219.104.16.1192009年8月2日 (日) 09:12 (UTC)
コメント。﹁漢文訳﹂なる妙な言葉はこの世に存在しません。﹁英訳﹂や﹁英文和訳﹂はあっても﹁英文訳﹂は無い。﹁和訳﹂はあっても﹁和文訳﹂や﹁日本語文訳﹂なんて言葉は無いのと同様です。また漢文は﹁中国古来の文語体の文章﹂であって﹁中国古来の言語﹂を指す言葉ではありません。61.209.155.226 2009年8月2日 (日) 11:46 (UTC)
︵補足︶﹁英文﹂とは﹁英語で書された文章﹂のことであり、﹁日本語文﹂とは﹁日本語で書された文章﹂のことです。それと同じ意味で﹁漢文﹂とは﹁漢字で書された文章﹂の意です。
﹁漢文﹂は﹁﹃︵現代で言う所の︶中国語﹄で書された文章﹂ではないのです。日本人による日本式の﹁漢文﹂が存在することからもそれは明らかです。ですから﹁中国語﹂を﹁漢文﹂で置き換えるのは全くの誤りです。それはたとえて言うならば﹁英語﹂を﹁アルファベット﹂で置き換えるような誤りです。到底許容できるものではありません。
中国語での﹁漢文﹂にはまた違った用法があるのかもしれませんが、ここは日本語版ウィキペディアですので日本語の用法が優先されます。61.209.155.226 2009年8月2日 (日) 11:54 (UTC)
更に追記。﹁漢文﹂とは﹁文章﹂を指す言葉であり、﹁漢語﹂とは﹁単語﹂を指す言葉です。いずれも言語全体を指す言葉ではありません。61.209.155.226 2009年8月2日 (日) 12:23 (UTC)
コメント
二次情報源の追加
﹃仏教学辞典﹄︵新版︶P.446﹁訳経﹂
﹁︵略︶現今の漢訳仏典には直接梵本から訳されたものや、︵後略︶﹂
仏典の漢訳 - 前述した﹁漢訳﹂のサブセクションです。
確認
﹁219.104.16.119﹂と﹁61.209.155.226﹂IPユーザーの発言は、紛らわしくて判別に時間が掛かります。同一人物の発言かと思い混乱しました。
ミスタイプについて
誤 - ﹁本文意に反映していません﹂
正 - ﹁本文には反映していません﹂
上記の通り修正いたします、失礼致しました。
根拠のない想像について
あらためて申しますが、ノートページなので﹁と考えます﹂と私は推論しております。
﹃中国語訳﹄は、出典である﹃浄土三部経﹄︵下︶に記述され検証可能であり、記述可能である。︵Wikipedia:検証可能性を見よ︶
しかし、﹃岩波仏教辞典﹄、﹃大辞泉﹄、﹃仏教学辞典﹄︵新版︶では﹁漢訳﹂の語を用いており、
﹃浄土三部経﹄︵下︶も文中において﹁漢文に翻訳するの意﹂で﹁漢訳﹂の語を用いている。
Wikipediaは、検証主義です。よってセクション名は、﹁中国語訳﹂・﹁漢文訳﹂を﹁漢訳﹂と変更することが妥当と考える。
61.209.155.226が言わんとする旨が分かりかねます。﹁漢文﹂のセクション名で賛成なのでしょうか?
確認2﹁岩波の意向を尊重する必要は全く無い。﹂、﹁﹃漢訳﹄は﹃中国語訳﹄と﹃漢文訳﹄との間の中立でないことは明らかです。・﹁﹃中国語訳﹄の正当性は客観的に否定されたわけです﹂等は断定した発言で、219.104.16.119の出典の無い独自解釈と考えます。Wikipediaの利用者は、解釈を求められているのではなく、検証可能である出典による記述が求められています。--Resto1578 2009年8月2日 (日) 19:32 (UTC)
済
一ヶ月ほど経過しましたが、コメントが無いようなので﹁﹁中国語訳﹂のセクション名について﹂は、終了したいと思います。--Resto1578 2009年9月8日 (火) 00:20 (UTC)
"Finding Our True Home"を出典とする記述について[編集]
googleブックスで"Finding Our True Home"を確認しました[2]。
「阿弥陀仏および極楽などの語がみられるインドの経典で最古のものは、西暦100年ごろのものと考えられる『阿弥陀経』であり、この時点で、歴史上のゴータマ・ブッダ没後から、実に約600年も経過している。」の記述はありませんでした。よって検証可能性を満たしていない記述であるため除去しました。--Resto1578 2011年1月7日 (金) 00:51 (UTC)