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中国版で「金丸」ではなく「金圓」が正しい、との議論があるようですが、どなたか詳細をご存知の方はいらっしゃいますか?
zh:琉球國
また、インターネット上で「金丸」を「内間金丸」としているものもありました。
これらの名称についても併記したほうがよいと思うのですが。
222.2.109.139 2007年5月1日 (火) 07:58 (UTC)[返信]
第一尚氏の一代目は尚巴志じゃなくて尚思紹じゃないのですか?
--ゐ樹天狗 2007年8月30日 (木) 02:34 (UTC)[返信]
- テンプレートの記述は琉球王国の成立を第一尚氏王統の成立時ではなく三山の統一時とみなして書かれたのではないかと思いますが。--Novo 2007年8月30日 (木) 12:14 (UTC)[返信]
琉球国旗と称して、尚王家の家紋﹁左三つ巴﹂を中心に描いた旗が掲載されていますが、これは学説として定着しているものでしょうか?出典として、﹁内外旗章便覧 明治初期 含・琉球国旗﹂が引用されていますが、そこにある朝鮮国旗などは明らかに事実誤認で信憑性に乏しいと思います。これ以外に出典はありますか?--尚玉 2008年5月17日 (土) 22:49 (UTC)[返信]
琉球大学附属図書館というアカデミックな機関︵しかも地元です︶の広報誌で、﹁琉球国旗﹂として画像情報で紹介している以上、信憑性に乏しいとするなら、それを否定する出典を明記する必要があります。Wikipedia:独自研究は載せない#信頼できる資料、Wikipedia:検証可能性にもあるように、﹁真実かどうか﹂ではなく﹁検証可能かどうか﹂で記載されるべきで、琉球国旗として別の情報が存在し、それが検証可能であれば情報の変更に異論はありません。--SRIA 2008年5月18日 (日) 02:15 (UTC)[返信]
要するに、ネット検索でたまたまこのサイトを見つけて貼り付けただけで、出典となる文献を読んだわけではなく、また琉球史についての専門的知識も琉球の旗についての何らかの文献も読んだことはないのですね? 私はいまだかつて沖縄学において琉球国旗というものを記述している研究者を見たことがありません。ほかに出典は示せませんか?--尚玉 2008年5月18日 (日) 02:32 (UTC)[返信]
SRIAさんは﹁Wikipedia:独自研究は載せない#信頼できる資料、Wikipedia:検証可能性にもあるように、﹁真実かどうか﹂ではなく﹁検証可能かどうか﹂で記載されるべき﹂と言っていますね。SRIAさんの書き込みには﹁情報源﹂があるわけです。尚玉さんはそれに対して情報で反論しなければならないのではないかと思います。その情報とは尚玉さんが沖縄学・琉球史の専門家である、というものではなく、別の情報︵ソース︶によるものです。﹁琉球王国には国旗やそれに類する物はなかった﹂等の記述のある文献等もないのでしょうか。
そういう文献もないというのであれば、例示の国旗に対して﹁あまり正確ではないかもれしない﹂旨の注釈を付ける等してはどうでしょうか。
あくまでも問題は﹁真実かどうか﹂ではなくて﹁検証可能かどうか﹂だと思います。
それと、﹁要するに~ないのですね?﹂まで、SRIAさんを見下しているように感じられます。その部分は不必要なのではありませんか?もう少し言葉を選んだ方がよいのではと思い、気分を害されるかと思いますが、老婆心ながら一言付け加えました。--61.213.70.95 2008年5月18日 (日) 19:05 (UTC)[返信]
﹁Wikipedia:独自研究は載せない﹂に﹁何が基準にあった、あるいは評判の良い資料となるかについて論争や議論が生じる場合があります。論争が起こった際には、より多くの編集者を集め、合意形成を目指して努力するしかありません。﹂とあります。当該資料について、最初に私は﹁そこにある朝鮮国旗などは明らかに事実誤認で信憑性に乏しい﹂と述べてありますが、それについての回答はありません。﹁真実かどうか﹂ではなく﹁検証可能かどうか﹂というのは、回答の拒否への免罪符にはなりません。資料の信頼性について疑問が提示されているのですから、それについてまず話し合いを勧めていくべきです。--尚玉 2008年5月18日 (日) 21:33 (UTC)[返信]
ご返答が遅くなり申し訳ありません。尚玉さんがご指摘するように、当方は琉球史についての専門家でもなく、文献も公立図書館で閲覧するか古書店で購入するかネットで検索するか、位の素人です。そのため、左三つ巴の琉球国旗や朝鮮国旗について信憑性がないと言われても肯定も否定も出来ません。尚玉さんがどのようなお立場で発言されているか不明のため、朝鮮国旗について事実誤認と判断された根拠が判らないのですが、明治6年発行の﹁萬國早見表﹂という書籍には似たような図案で朝鮮国旗が紹介されています。その書籍には琉球国旗は記載されておりません。
今回、琉球国旗について記述したのは、少なくとも琉球関係の資料収集・研究に於いて本土よりも専門的である琉球大学が﹁琉球国旗﹂として対外的に発表しているためで、﹁いまだかつて沖縄学において…﹂云々について、そうなんですか?と逆に伺いたいほどです。実際に琉球国旗というものが無いのであれば、Infoboxには﹁国旗なし﹂と記載すべきだと思います。また琉球船旗について当方が調べた範囲では﹁横五線の旗﹂・﹁三角旗に日章﹂︵両方ともモノクロなので色は判りません︶を琉球船旗と紹介している本は見かけましたが、日章旗と同一デザインの旗を紹介しているものは有りませんでした。宜しければ、琉球船旗の文献・資料を紹介して戴けると有り難いです。--SRIA 2008年5月21日 (水) 19:55 (UTC)[返信]
返事遅れました。まず琉球国旗というものは存在しません。次に外洋船が掲げる旗ですが、進貢船には左三つ巴旗は掲揚しません。進貢船には三種のデザインの異なる日の丸旗、五色旗、ムカデ旗と呼ばれる幟などが掲揚されていました。左三つ巴旗は、薩摩へ向かう船など非外洋船には掲げられていました。
それから公立図書館は広く郷土資料に関係する稀覯本を収集しますので、﹁内外旗章便覧﹂の内容が真実かどうかという基準で購入するわけではないのです。外国人のかたが琉球国旗や琉球藩旗と称して、旗の画像をアップしていますが、いずれも研究者の間で認められたものではありません。ですから国旗の記載はいらないといえばいりません。--尚玉 2008年5月25日 (日) 09:19 (UTC)[返信]
その後、私も改めて琉球国旗について調べてみましたが、国旗を確定できるような文献は見つかりませんでした。また、下に書きましたように、琉球藩旗については明らかに誤りのようです。ですので、琉球国旗と国章の覧は、空白にしておいたほうがよろしいと思います。--尚玉 2008年9月25日 (木) 22:12 (UTC)[返信]
19世紀初頭の琉球王国の船旗と薩摩藩の船旗を﹃琉球貿易図屏風﹄より見ると、日章旗は琉球王国の船旗の一つで有るのがわかります。これを実質的国旗ではないでしょうか。
﹁過去に独立していた国の旗一覧﹂のページにある国旗は国旗ではないのですか?
琉球藩旗と称する三色に塗り分けられた左三つ巴旗が、ウィキメディアにアップされ、海外版Wikipediaの琉球王国の記事でも利用されていますが、この旗は、戦後米軍施政下のもとで、新たに﹁沖縄旗﹂を制定する話が持ち上がった際、一つの案としてデザインされたものだそうです。[1]にその説明がありました。詳しくは琉球大学教授・我部正明﹃日米関係のなかの沖縄﹄で述べられているそうです。ですから、琉球藩時代のは旗ではありません。--尚玉 2008年9月25日 (木) 22:09 (UTC)[返信]
219.111.120.175 様
琉球侵攻ではなかったというのであれば、﹁歴史・三山統一・第二尚氏王統﹂の次ぎに記述されている﹁薩摩による琉球侵攻﹂の項目と内容を全て削除すべきだと思います。統一王の尚巴志王は薩摩属琉球國王であったのでしょうか?--Okinawan dayo 2009年7月8日 (水) 14:55 (UTC)[返信]
﹁侵略という表現が差し戻されたから、全除去﹂とは論点の飛躍が著しいと思われますが、いかがでしょうか。
すぐに確認できる出典では、鹿児島県の公式ウェブサイト︵[2]︶では﹁出兵﹂、マイペディアの沖縄県・琉球では﹁侵攻﹂、琉球使節では﹁薩摩の侵略︵琉球征服︶﹂、鹿児島藩では﹁琉球を藩の支配下に置いて﹂としています︵本来なら山川出版社の﹃鹿児島県の歴史﹄﹃沖縄県の歴史﹄辺りを確認するべきでしょうが、すぐに回答できるのはこれくらいということで︶。
少なくとも鹿児島側が侵攻を用いているとは言い難く、沖縄側においても侵攻にとどめているとみるべきです。侵略という﹁過激な﹂表現は特定の視点に偏っており不適切であるように思われます。偏った視点による表現ではなく無難な表現を用いてほしい、という要約欄の意図を汲んでいただけず残念です。--Sanjo 2009年7月8日 (水) 15:18 (UTC)[返信]
この記事に限らず、琉球関連の記事には中立的な観点が欠如している箇所が見られます。先島諸島や奄美諸島など、沖縄本島の琉球王権による﹁侵略﹂は正当化され、薩摩藩からの﹁侵略﹂は殊更否定的に記述する、という文面が多いです。今回はとりあえず冒頭文のみの修正をしましたが速攻でリバートされ、更にSanjoさんの修正に対しても﹁侵攻﹂という言葉にすり替えがなされたので、﹁中立的な観点﹂を貼りました。--219.111.120.175 2009年7月8日 (水) 15:41 (UTC)[返信]
私は﹁侵略﹂と﹁侵攻﹂という言葉を同じ概念︵度合い︶で捉えていましたので、まず、それをわかっていただきたいです。表現が過激という指摘を受けて納得できました。﹁侵攻﹂で同意します。--Okinawan dayo 2009年7月8日 (水) 15:50 (UTC)[返信]
山川出版社の﹃鹿児島県の歴史﹄︵1999年︶を読んできました︵﹃沖縄県の歴史﹄︵2004年︶は最寄りの図書館に入っていないようです︶
見出しで﹁琉球出兵﹂、その他文章も﹁出兵﹂で統一されています。これは琉球出兵に限らず、琉球王国が奄美を支配した過程についても﹁出兵﹂﹁進出﹂を用いています。鹿児島県の歴史分野においての基礎文献としても過言でない﹃鹿児島県の歴史﹄で﹁侵攻﹂が用いられていないことは、注目に値すると考えられます。--Sanjo 2009年7月9日 (木) 09:28 (UTC)[返信]
﹁侵略﹂や﹁侵攻﹂という言葉は、ある軍事行動についてその善悪の評価を付加した言葉だと言えますが、Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアは演説をする場所ではありませんに照らし合わせれば、そのような評価を伴う言葉を使用することは慎むべきとあります。なので、Sanjoさんの提案に私も賛成で、軍事行動のみを指す﹁出兵﹂、あるいは、交戦団体の行為のみを指す﹁進出﹂という善悪の評価を伴わない言葉が適当だと思います。また、冒頭文については簡潔に﹁17世紀初頭に薩摩藩︵日本︶の付庸国となった。﹂でいいと思います。--219.111.120.175 2009年7月9日 (木) 22:16 (UTC)[返信]
一つ例を上げると、wikipedia﹁元寇﹂についての記述。
日本側では元寇(元と高麗︶による日本侵攻と記述されています。
諸外国からの武力攻撃は、日本側では侵攻と受け止められ記述されています。
それに対し、琉球王国では薩摩による進出にとどめ、元寇では元寇による日本侵攻とするのは公平性に欠けていると思われます。なので、極めて簡単な話ではありますが、﹁薩摩による侵攻﹂を﹁進出﹂と書き換えるのではなく、﹁琉球による奄美侵攻﹂の詳細を付加し、﹁進出﹂を﹁侵攻﹂とするのが適当だと思われます。
ちなみに、琉球王国wikipedia英語では、﹁Japanese invation︵日本の侵略・侵攻︶﹂と記述されています。
--Okinawan dayo 2009年7月10日 (金) 17:46 (UTC)[返信]
別の記事でWikipediaのルールに合っていない記述があるから、この記事でもWikipediaのルールを守らなくて良い、という論理はおかしいと思います。元寇の日本語版や琉球王国の英語版の記述も、Wikipediaのルールに沿って変更すべきです。ただ、琉球王権と奄美との間の軍事的衝突について書き加えることには賛成です。
Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアはいかなる団体の公式サイトでもありませんに沿って、どこかの国や党派の代弁者とならぬよう、中立性を保つ努力をしていきましょう。また、Wikipediaのルールに合っていない記述を見つけたら、修正していきましょう。--219.111.120.175 2009年7月10日 (金) 18:26 (UTC)[返信]
●沖縄の自称は今も昔も﹁うちなー﹂であり、日本語では沖縄、中国語では琉球です。記事名で琉球王国というのはフランスのアルザス・ロレーヌをフランス語ウィキペデイアでエルザス・ロートリンゲンと記述するような異様さです。英語版の中国東北地方が満州となっていないで中国語発音で記載されているように、通例、領有権を保有している国の名称か、地元民の自称を用いるので、英語版ウィキペデイアでも同様の提案をしたいと思っています。中国は﹁沖縄は日本に奪われた自国領だ﹂と英語版でも宣伝をしており沖縄に対する不合理な領土的野心を隠しておりません。
●そもそも中国に朝貢していた国は日本も含め、中国と貿易をするにあたって中国が中華思想で朝貢貿易以外を認めていなかったうえ、朝貢貿易の利潤が大きかったから朝貢貿易という形態をとっていただけです。薩摩侵攻以前の沖縄王国は日本同様中国と朝貢貿易はしたものの完全な外交自主権を持った独立国であり、薩摩侵攻以降は薩摩に外交貿易を支配された保護国でした。従って実体がなかった朝貢関係を持って清国のTribunal Nationであったというのは、如何なものでしょうか?
●日本領である沖縄は、正確性や沖縄住民の自身の呼称尊重したとしても﹁うちなー﹂と表記すべきで、琉球王国という中国呼称で表記するのはウイキペデイアの日本語版・英語版ではふさわしくないので8月8日まで異議がなければリダイレクトしたいと考えます--Jack332 2009年8月3日 (月) 08:50 (UTC)[返信]
日本語の﹁琉球王国﹂という語は学術的にも問題なく用いられており,Wikipedia日本語版に項目として掲載されるのに問題はないと思われます.﹁うちなー王国﹂という日本語は実際に使用されている/いたのでしょうか.琉球国の対外的でない自称が﹁おきなわ﹂にあたる語であったことを記載することでJack332さんの意図は表現できるのでは.是非ご一考を.--Charlesy 2009年8月4日 (火) 03:06 (UTC)[返信]
首里王府の使用していた国号は﹁琉球國﹂です。ウチナーは琉球方言での俗称で、正式国名として使用されたことは一度もありません。ですので、記事改名には反対です。--尚玉 2009年8月4日 (火) 07:09 (UTC)[返信]
学問的に正確でない﹁日清両属時代﹂という項目に変更している人がいますが、琉球が中国に朝貢したのは薩摩の侵攻よりはるか昔の14世紀末からであり、また薩摩支配以後もしばらくは明の時代が続いており、清の冊封を受けるようになったのはそれより数十年後のことです。つまり、時期的に一致していない時代区分を一時代項目として設けるのはおかしいわけで、編集はノートで議論して合意を形成してからでお願いします。--尚玉 2009年10月7日 (水) 00:36 (UTC)[返信]
おはようございます。尚玉さんは﹁日清両属時代﹂という節の名称がおかしいということでrevertされていたのですね。では、尚玉さんが問題視していない節名以外の部分は私の編集に戻します。ただし、﹁薩摩による琉球侵攻﹂という節名では、以前のノートの議論にあるように中立的観点に反したままであり、中立的観点のタグは外れません。--220.210.149.17 2009年10月9日 (金) 21:13 (UTC)[返信]
わたしは﹁侵攻﹂﹁侵略﹂が悪い言葉だとは思いません。﹁侵﹂という漢字は、他国をおかすという意味で、その行為にプラスもマイナスもないと思っています。人類は有史以来、どこでも多かれ少なかれそうした行為をしてきたわけですから。侵攻、進出という言葉に目くじらたてる人間は、教科書問題などでこの言葉の意味を誤解しているのでしょう。薩摩侵攻についていえば、当時琉球は薩摩とは他国でしたから、侵攻、侵略で意味は合っています。--尚玉 2009年10月16日 (金) 01:12 (UTC)[返信]
﹁侵攻﹂が非中立的な表現であり、余計な論争をもたらすため﹁出兵﹂とするのが無難、というのが上述の議論です。上述の通り﹃鹿児島県の歴史﹄︵1999年︶では﹁出兵﹂で統一してますし︵琉球王国の奄美への支配過程も﹁出兵﹂︶、後に確認した﹃沖縄県の歴史﹄︵2004年︶も﹁出兵﹂だったような……。﹃鹿児島県の歴史﹄編纂者には琉球に詳しい研究者もいますから、非中立的な文献とはいえません。--Sanjo 2009年10月16日 (金) 02:44 (UTC)[返信]
出兵というのは、単に﹁兵を出す﹂という意味であり、服属前の薩摩と琉球の独立・非独立の関係やその後の支配関係についての意味が出てきません。また、﹁侵攻﹂が非中立的という認識自体がすでに﹁非中立的﹂な視点であり、こうした間違った認識を許容すれば、ウィキペディアのあらゆる該当記事で言葉狩りが行われるでしょう。ですので、侵攻でかまわないと思います。--尚玉 2009年10月16日 (金) 05:42 (UTC)[返信]
語義やら認識やら以前の問題です。出典とすべき書籍にどう表現されているか。﹃鹿児島県の歴史﹄﹃沖縄県の歴史﹄をもとに執筆すれば必然的に﹁琉球出兵﹂という表現となり、2書籍で用いられない﹁侵攻﹂にはなりえません。2書籍が出典として挙げられている状態で﹁侵攻﹂と書き換えた場合、どうなるか。﹁要出典﹂とされ数日後に差し戻されるだけのことです。
……現時点で参考文献としている﹃沖縄一千年史﹄﹃沖縄門中大事典﹄の事例が挙げられていませんね。こちらで﹁琉球侵攻﹂とされている場合は、脚注またはカッコ書きで併記する方法が考えられます。
ついでに。島津氏に降伏した側︵肝付氏︶を扱った﹃鹿屋市史 上巻﹄︵1967年、1995年。編纂序文で﹁中立的でない記述をする﹂と明言︶ですら﹁侵攻﹂は用いていません。そのような表現は﹁余計な論争を喚起するだけ︵現に発生している︶﹂であり政治的色彩が強いのです。--Sanjo 2009年10月16日 (金) 08:09 (UTC)[返信]
﹃沖縄門中大事典﹄では﹁薩摩の琉球侵入﹂︵45頁︶、﹃沖縄一千年史﹄では、﹁慶長役﹂︵247頁︶となっています。他に﹃図説・琉球王国﹄︵河出書房︶では、﹁薩摩の琉球侵攻﹂︵63頁︶となっています。--尚玉 2009年10月16日 (金) 09:31 (UTC)[返信]
ところで、あなたが出典として挙げている﹃鹿児島県の歴史﹄﹃沖縄県の歴史﹄は記事の参考文献には挙げられていませんが、どこに記述されているのでしょうか? たまたまあなたが図書館で見た本ということでしょうか?--尚玉 2009年10月16日 (金) 09:36 (UTC)[返信]
Wikipedia:合意形成がなかなか出来ないので、Wikipedia:コメント依頼をしようかと思いますが、どうでしょうか? --220.210.149.17 2009年10月20日 (火) 08:11 (UTC)[返信]
- まだあなたからもSanjo氏からも返事をいただいておりません。コメント依頼する前に、最低限応答しないと、合意形成できるものではありません。--尚玉 2009年10月20日 (火) 14:10 (UTC)[返信]
--220.129.71.184 2013年10月13日 (日) 13:59 (UTC)[返信]
『左三巴』が実質的国章として使われたと書かれているインターネットのサイトが有りますがどうでしょうか--以上の署名のないコメントは、K-iczn(会話・投稿記録)さんが 2015年1月5日 (月) 23:57(UTC) に投稿したものです(Brockenman(会話)による付記)。
出典・参照方法等々不適切でwikipediaの品質水準を満たしておりません。テンプレートを導入致しましたので爾後の改善を宜しくお願い申し上げます。--大和屋敷(会話) 2017年6月4日 (日) 04:07 (UTC)[返信]
注釈1で、中国が朝貢してきた国を自国の領土だと、琉球に対して言っていること。ベトナム、朝鮮半島、日本が朝貢したことは、教科書にも載っています。そして、現実にベトナム、北朝鮮、韓国、日本は独立国家であります。なので、出展を求めるのは、やりすぎだと考えます。--ひまつぶし太郎(会話) 2017年10月27日 (金) 03:16 (UTC)[返信]
- すでに「琉球王国」でウィキペディア内も(世間一般はおろか各種歴史文献、学術論文ほかも)統一されているので勝手に「琉球國」などに一律変更しないでください。
- 沖縄県の歴史からの転記は詳細に過ぎ必要ないので、元に戻しました(see also付記)
- アンダーラインはスタイルマニュアルに無いので取りました
- 三山から琉球処分までの期間で、琉球にだけ関わる事項は中国年号だけを用いました(琉球史書が其のとおりであるため)
- 出典の明記・参照方法テンプレートなどを勝手に剥がさないでください。
--Krkrkrme(会話) 2019年4月16日 (火) 12:04 (UTC)[返信]
編集には異議はあまり無いんですが所論について感想を意見の形としてメモしておきます。
●PrideProud氏曰く‥︵※あまり長文の論述を編集履歴に書かれても困るのでノートまたはコメントに記載するようお願いします︶
●﹁﹁これらから少なくとも琉球王統は日本人であることを王の正当性と認識していたと考えられ、﹂を削除。 削除理由:極めて恣意的な解釈があったため。そもそも近代的な国民概念である﹁日本人﹂という概念は明治維新以降の近代化の最中に作られた概念であり、近代化以前に日本とは別の独立国家であった琉球王国の人々(王族、貴族、民衆含め)に﹁日本人﹂という自己認識がないことは自明である。﹂
●﹁また天孫氏を自称した初代中山王の察度は1368年︵洪武元年・貞治7年︶に真言宗の勅願寺︵後に護国寺︶の創建と熊野信仰の波上宮の創建を行っており、日本への帰属意識が高かった傍証となっている。﹂ から ﹁日本への帰属意識が高かった傍証となっている。﹂ を削除し、 ﹁また天孫氏を自称した初代中山王の察度は1368年︵洪武元年・貞治7年︶に真言宗の勅願寺︵後に護国寺︶の創建と熊野信仰の波上宮の創建を行っている。﹂ に改善した。 削除理由:極めて恣意的な解釈が見られたため。神社や寺院の建立を国家的な帰属意識の表れと解釈するのは不適切である。
●﹁隋書より後には、﹁流鬼﹂︵﹃新唐書﹄︶、﹁瑠求﹂︵﹃元書﹄︶などと様々に表記されるが、いずれも﹁流求︵溺れ助けを求む︶﹂、﹁流鬼︵溺れる鬼︶﹂、﹁留仇︵敵のいる所︶﹂などと言った中華思想に基づく蔑称である。﹂を削除。 削除理由:恣意的な解釈が見られたため。
●︵所論︶奄美・琉球では古代から貝の道での交易はあったので﹁やまと﹂がグスク時代から記績に残っているように大和人を他称として捉えていた事は確かです。ただ奄美・琉球の古代社会︵グスク時代より前︶は文献が残っていないため歴史学上は伝説や伝記から組み立てて想像するしか無いわけです。そしてグスク時代前期︵三山まで︶は世之主とノロの祭政一致体制︵これは本土の古代社会に相似︶で、明国への冊封交易で国の自称︵三山︶および中華文化を取り入れる訳ですが、あながち﹁○○人﹂と言う自己認識が無かった…と全面否定するのは乱暴なんですよ。古代から大和や中国とは交易し、琉球弧の島々の間でも連絡や交易がある訳で、それぞれの島またはシマで自称や他称の認識はあったでしょう。︵ただそれが国と言う意識に及ぶには三山以降となるかと推定されますが︶--Krkrkrme︵会話︶ 2019年11月22日 (金) 15:30 (UTC)[返信]
上でも指摘されていますが、2019年12月12日の版[3]から、見出しが﹁琉球王国﹂と﹁琉球國﹂と併記されるようになっていますが、ノートでの議論を通じて承認されたわけではありません。琉球國という呼称はたしかに当時の史料に見られる国号ですが、現在の沖縄史では﹁琉球王国﹂の呼称が定着しています。
したがって、見出しは﹁琉球王国﹂のみに戻し、当時の呼称については記事中で述べればよいと考えます。また現在も呼称の変遷については十分説明されていると考えます。ウィキナ︵会話︶ 2023年11月7日 (火) 01:06 (UTC)[返信]