パーマストン子爵
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パーマストン子爵 Viscount Palmerston | |
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Arms:Quarterly: 1st and 4th, Or an Eagle displayed Sable (for Leofric, Earl of Mercia); 2nd and 3rd, Or two Bars Azure each charged with three Martlets Azure (Temple) Crest:A Talbot sejant Sable collared and lined Or Supporters:Dexter: a Lion reguardant Pean; Sinister: a Horse reguardant Argent maned tailed and hoofed Or
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創設時期 | 1723年3月12日 |
創設者 | ジョージ1世 |
貴族 | アイルランド貴族 |
初代 | 初代子爵ヘンリー・テンプル |
最終保有者 | 3代子爵ヘンリ・テンプル |
付随称号 | テンプル男爵 |
現況 | 廃絶 |
断絶時期 | 1865年10月18日 |
モットー | 壊れずに曲がれ (Flecti Non Frangi) |
パーマストン子爵︵英語: Viscount Palmerston [ˈpɑːmərstən]︶は、かつて存在したアイルランド貴族の子爵位。
18世紀から19世紀にかけてテンプル家が3代にわたって保有した。
首相や外務大臣を歴任した第3代パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・ テンプル︵1863年︶
テンプル家は11世紀のマーシア伯爵レオフリックまで遡ることができるといわれる旧家であり[1]、イングランド中部レスターシャーに領地を持つイングランド貴族だったが、薔薇戦争で一度没落した[2]。
テンプル家が再度名声を得たのは、16世紀に軍人・政治家・文人として活躍したサー・ウィリアム・テンプルである[1]。彼の息子サー・ジョン・テンプルはピューリタン革命で議会側に付いたが、後に国王側に寝返ったため、1660年の王政復古の際に枢密顧問官に列するとともにアイルランドに領地を持つようになった[1]。
その息子のサー・ウィリアム・テンプルは近代随筆の先駆者、また外交官としてルイ14世の覇権に挑戦したことで名を馳せた[3]。彼はオランダ総督オラニエ公ウィレム3世︵後のウィリアム3世︶とヨーク公女メアリー︵後のメアリー2世︶の結婚を成立させ、後の名誉革命の伏線を作ることになった[1]。
その弟ジョンは、アイルランド議会の下院議長を務めた[1]。
その子であるヘンリーが1723年3月12日に領地の名前に由来したアイルランド貴族爵位﹁カウンティ・オブ・ダブリンにおけるパーマストン子爵︵Viscount Palmerston, in the county of Dublin︶﹂と﹁カウンティ・オブ・スライゴにおけるマウント・テンプルのテンプル男爵︵Baron Temple, of Mount Temple in the County of Sligo︶﹂に叙されたのがパーマストン子爵位の始まりである[1][4][5]。
この爵位は1757年6月10日に初代パーマストン子爵の孫にあたるヘンリーに継承され[6]、ついで1802年4月17日に第2代子爵が死去すると、その長男であるヘンリー・ジョンが第3代パーマストン子爵位を継承した[7]。この第3代子爵は19世紀前半から中期にかけて首相や外務大臣を務めたことで著名である。しかし彼には嫡出子ができなかったので、1865年10月18日の彼の死とともにパーマストン子爵位は絶えることとなった[8]。
2代子爵の代にアイルランドの所領から上がっていた収入は7000ポンド程度であり、これは当時の基準で言えば中小規模の貴族だった[9]。しかし初代子爵はイングランド南部ハンプシャーのロムジーにも邸宅と土地を購入し、この屋敷は後にヘンリー・ホランド設計の華麗なゴシック様式の邸宅に改築され評判になった[10]。
パーマストン子爵位も従属爵位のマウント・テンプルのテンプル男爵位もアイルランド貴族であり、グレートブリテン貴族や連合王国貴族の従属爵位は持っていなかったため、歴代パーマストン子爵はイギリス貴族院に議席をもたず、代わりに庶民院選挙に立候補することができた[11]。
歴史[編集]
パーマストン子爵(1723年)[編集]
肖像 | 爵位の代数 名前 (生没年) |
受爵期間 | 備考 |
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初代パーマストン子爵 ヘンリー・テンプル (1673頃-1757) |
1723年2月9日 - 1757年6月10日 | 庶民院議員(1727-1747) | |
第2代パーマストン子爵 ヘンリー・テンプル (1739-1802) |
1757年6月10日 - 1802年4月17日 | 庶民院議員(1762-1800) | |
第3代パーマストン子爵 ヘンリー・ジョン・テンプル (1784-1865) |
1802年4月17日 - 1865年10月18日 | 庶民院議員(1807-1835、1835-1866) 外相(1830-1834、1835-1841、1846-1851) 首相(1855-1858、1859-1865) |
系図[編集]
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| ピーター・テンプル |
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アンソニー・テンプル |
| ジョン・テンプル | |||||||||||||||||||||
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ウィリアム・テンプル (1555-1627) |
| 初代準男爵 トマス・テンプル (1567-1637) |
| アレグザンダー・テンプル | |||||||||||||||||||
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| コバム子爵家 ストーのテンプル伯爵家 シャンドス子爵家 キンロス卿家 |
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ジョン・テンプル (1600-1677) |
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| ジェイムズ・テンプル (1606-1680) | |||||||||||||||||
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1666年準男爵 |
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初代準男爵 ウィリアム・テンプル (1628-1699) |
| ジョン・テンプル (1632-1705) |
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準男爵位廃絶 |
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| 1723年パーマストン子爵 |
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| 初代パーマストン子爵 ヘンリー・テンプル (1673-1757) | |||||||||||||||||||
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| テンプル卿 ヘンリー・テンプル (-1740) | |||||||||||||||||||
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| 2代パーマストン子爵 ヘンリー・テンプル (1739-1802) |
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| 3代パーマストン子爵 ヘンリー・ジョン・テンプル (1784-1865) |
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| パーマストン子爵廃絶 |
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脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ a b c d e f 君塚(2006) p.13
- ^ 中西(1997) p.81-82
- ^ 中西(1997) p.81
- ^ "No. 6136". The London Gazette (英語). 5 February 1723. p. 1.
- ^ Heraldic Media Limited. “Palmerston, Viscount (I, 1723 - 1865)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2017年9月14日閲覧。
- ^ "Palmerston, Henry (Temple), Viscount (PLMN757HT)". A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
- ^ 君塚(2006) p.16
- ^ 君塚(2006) p.23
- ^ 君塚(2006) p.13-14
- ^ 君塚(2006) p.14
- ^ 君塚(2006) p.18