フェレンツ・エルケル
表示
フェレンツ・エルケル Ferenc Erkel | |
---|---|
基本情報 | |
生誕 |
1810年11月7日 オーストリア帝国 ハンガリー王国、ジュラ |
死没 |
1893年6月15日(82歳没) オーストリア=ハンガリー帝国 ハンガリー王国、ブダペスト |
ジャンル | クラシック |
職業 | 作曲家、指揮者、ピアニスト |
フェレンツ・エルケル︵Ferenc Erkel, ハンガリー語: Erkel Ferenc ハンガリー語発音: [ˈfɛrɛnts ˈɛrkɛl], ドイツ語: Franz Erkel; 1810年11月7日 - 1893年6月15日︶は、ハンガリーの作曲家、指揮者、ピアニスト。ハンガリーにおけるグランド・オペラの父とみなされており、主に歴史を題材とした彼の作品はハンガリー国内では今日でもしばしば上演されている。また、1844年からハンガリー国歌となった﹃賛称﹄の作曲者としても知られる。
ハンガリー国立銀行が2010年にエルケル生誕200周年を記念して 発行した記念金貨。László Szlávics, Jr.のデザイン。
●Bátori Mária2幕形式、1840年 ︵Mária Bátoriはカールマーンの息子であるラースローの恋人の名前︶
●フニャディ・ラースロー4幕形式、1844年
●Erzsébet3幕形式、1857年。エルケルが手掛けたのは第2幕のみ
●バーンク・バーン3幕形式、1861年 ︵Bánk bánはアンドラーシュ2世の宮中伯バーンク・バーンのこと︶
●Sarolta3幕形式、1862年
●ドージャ・ジェルジ5幕形式、1867年
●Brankovics György4幕形式、1874年
●Névtelen hősök︵名もない英雄︶4幕形式、1880年
●István király︵イシュトヴァーン1世︶4幕形式、1885年
●Kemény Simon3幕形式の予定だったが断片のみ現存
生涯[編集]
エルケルはジュラに生まれた。父は音楽家のヨージェフ・エルケル︵Joseph Erkel︶で、母はクラーラ・ルトカイ︵Klára Ruttkay︶であった。エルケルが作曲したオペラのうち最初の3作品のリブレットはベーニ・エグレッシによるものである。エルケルは最も知られるオペラでの活躍に加えて、ピアノや合唱のための作品、並びに大曲﹃祝典序曲﹄を作曲した。彼はベルリオーズへと﹁ラーコーツィ行進曲﹂の存在を教えており、ベルリオーズはこれを後に﹃ファウストの劫罰﹄で採用している[1]。 エルケルは1853年創設のブダペスト・フィルハーモニー管弦楽団を率いた。また、彼は1886年までハンガリー王立音楽院の学長及びピアノ科の教員として教鞭を執った。1884年にハンガリー国立歌劇場が建設されると、彼はその音楽監督に就任した。 エルケルは1839年にアデール・アドレルシュ︵Adél Adlers︶と結婚し、彼らの息子のうち4人は後に彼のオペラの作曲に参加した。4人とはジュラ︵Gyula、1842年7月4日ペシュト-1909年3月22日ウーイペシュト︶、エレク︵Elek、1843年11月2日ペシュト-1893年6月10日ブダペスト︶、ラースロー︵László、1844年4月9日ペシュト-1896年12月3日ブラチスラヴァ︶、シャーンドル︵Sándor、1846年1月2日ペシュト-1900年10月14日ベーケーシュチャバ︶である。 エルケルはブダペストに没している。文化的影響[編集]
●エルケルはチェスの選手としても国際的に知られており、ブダペスト・チェス・クラブ︵Pesti Sakk-kör︶の創設者である。 ●ブダペストに1911年にできた、歌劇場同様にオペラの公演を行う歌劇場の1部門が、1953年より彼の名を冠してエルケル劇場︵Erkel Színház︶と名付けられている。 ●彼の生誕200周年を記念して、ハンガリー国立銀行が彼の肖像をあしらった金貨と銀貨を発行した[2]。オペラ[編集]
脚注[編集]
出典- ^ Grove's Dictionary of Music and Musicians, 5th ed., 1954, Eric Blom, ed.
- ^ “Ferenc Erkel Gold and Silver Coins”. 2013年12月28日閲覧。
外部リンク[編集]
- フェレンツ・エルケルの楽譜 - 国際楽譜ライブラリープロジェクト
- Budapest Philharmonic Orchestra (英語)
- Opera.hu (英語)
- エルケルのチェス対戦記録
- フェレンツ・エルケルの著作およびフェレンツ・エルケルを主題とする文献 - ドイツ国立図書館の蔵書目録(ドイツ語)より。