ポール・ペリオ
人物情報 | |
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生誕 |
1878年5月28日 フランスパリ |
死没 | 1945年10月26日 (67歳没) |
学問 | |
研究分野 | 東洋学 |
研究機関 | フランス極東学院 |
ポール・ユジェーヌ・ペリオ︵Paul Eugène Pelliot, 1878年5月28日 - 1945年10月26日︶はフランスの東洋学者で、中央アジアの探検家である。敦煌文献をフランスにもたらした。中国名は﹁伯希和﹂︵ボー・シーヘー︶。
探検の旅程
敦煌の莫高窟蔵経洞で文書・経典などを調査するポール・ペリオ︵30歳 ︶。
1906年6月17日、ペリオは軍医のルイ・ヴァイヤンと写真家のシャルル・ヌエットとともにパリを出発して中央アジア探検に向かった。3人は鉄道でモスクワからタシケントに赴き、そこから清国領東トルキスタンに入った。探検隊は8月末にカシュガルに到着し、ロシア総領事館に滞在した。清国の官憲はペリオの流暢な中国語に驚き、探検準備のためにさまざまな便宜を図ってくれた。探検隊はトゥムチュクを経てクチャに入り、そこでブラーフミー文字に似た文字︵後にトカラ文字と呼ばれる︶で書かれた失われた言語︵後に、トカラ語のB方言クチャ語と呼ばれる︶の文書を発見した。この文書は後にペリオの師であるシルヴァン・レヴィによって解読されることになる。
探検隊はさらにウルムチ滞在中、敦煌出土の法華経古写本を見て、敦煌に赴いた。
敦煌の莫高窟はイギリスの探検家オーレル・スタインが前年の1907年に訪れ、1万点の古文書を持ち去っていたが、まだ残された文書も多かった。ペリオは莫高窟を守っていた王道士と交渉して、蔵経洞に入ることを許された。ここでもペリオの流暢な中国語が役立った。3週間にわたって蔵経洞の文書を調べたペリオは、最も価値のある文書数千点を選び出し、王道士に売却を交渉した。莫高窟の再建を計画していた王道士は500両︵約90ポンド︶で売ることを承諾した。
スタインは中国語を知らなかったので、彼が持ち帰った文書は価値のないものも多かったが、中国語を含め13ヶ国語に通じるペリオが選んだ文書はいずれも逸品ぞろいだった。そのなかには新発見の新羅僧・慧超の﹃往五天竺国伝﹄も含まれていた。