ロバート・エンバーソン
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ロバート・エンバーソン︵Robert Emberson、1866年2月22日 - 1910年4月22日︶は、明治時代にキリスト教伝道のため日本へ派遣された宣教師。
人物・来歴[編集]
1900年に来日し1901年から1910年まで静岡市に滞在して布教活動を行った。社会慈善活動家として、﹁市民向けの英語学校﹂、﹁児童養護施設・静岡ホーム﹂なども開設。歩兵第34連隊の将校及び軍医、看護卒・婦の英語授業を行い、求めに応じて聖書講義も行った[1]。ロシア人の捕虜120人が入っていた葵ホテル︵旧徳川慶喜邸︶の世話を務めた[1]。エンバーソンの邸宅は現存する貴重な明治建築であるため、旧エンバーソン邸として保存・一般公開されている[2]。生涯[編集]
幼年期[編集]
●1866年(慶応2年)2月22日 カナダオンタリオ州 ベンスフォーク村にて父ウィリアムの次男として生誕[3][1]。 ●1890年(明治23年)9月 アルバートカレッジに入学[1]。 ●1893年(明治26年) アルバートカレッジを卒業[3]。 ●1896年(明治29年) ビクトリア大学 (トロント大学)神学部に入学[1]。 ●1899年(明治32年)6月 ビクトリア大学 (トロント大学)を卒業 文学士、神学士の称号を併せ得た[3]。 その後、按手礼を受ける[4]。ヘスター・アン・ハリス(Hester Anne Harris)と結婚[4]。宣教師時代[編集]
●1900年︵明治33年︶ ●9月 - カナダ・メソジスト教会の宣教師として来日[4]。 ●11月23日 - 長女のドロシー(Dorothy)が誕生する[4]。 ●11月25日 - 徳川慶喜の屋敷が安池家に買い取られホテル﹃葵ホテル﹄として開業[5]。 ●1901年︵明治34年︶10月1日 - 静岡教会に着任[6]。 静岡市東草深2丁目に住む[6]。 ●1902年︵明治35年︶ ●7月1日 - 静岡教会の献堂式で説教を行う[7]。 ●9月 - 静岡英語夜学校を開く[3]。静岡県立静岡中学校[8][注釈 1]、静岡商業学校等で教鞭をとる[3]。 ●1904年︵明治37年︶ ●2月8日 - 日露戦争開戦。 ●4月1日 - 徳川慶喜の屋敷があった静岡市西草深町25番地の一角(現在の静岡市葵区西草深町15−25)に宣教師館(後の旧エンバーソン邸)が完成し、エンバーソン氏入居[9]。 ●11月20日 - 葵ホテルがロシア人捕虜収容所として陸軍省に借り上げられ、捕虜120人が収容される[10]。エンバーソンも彼らの世話を務めた[11]。 ●1905年︵明治38年︶ ●8月 - 静岡市鷹匠一丁目に出征軍人遺家族幼児保管所を開設[3]。 ●8月22日 - 二女のマジョリー(Marjorie)が誕生する[4]。 ●9月5日 - 日露戦争終了。 ●10月 - エンバーソン邸敷地内に学生寄宿舎(後のエンバーソンホール)が建てられる[9]。 ●11月8日 - 午前0時40分に葵ホテル倉庫より出火し、午前2時頃鎮火。葵ホテル倉庫及び葵ホテル本宅を焼失。エンバーソン邸は焼失を免れる。[10] ●1906年(明治39年)6月 静岡幼児保管所を開始[3]。 ●1907年(明治40年)4月5日 静岡ホームを創設[3]。 ●1907年(明治40年)5月 任期を終えひとたび帰国[3]。 ●1908年(明治41年)9月 再来日し、マッケンジー宣教師の後任として日本駐在宣教師団総理となる[12]。 ●1909年(明治42年)11月 肝臓がんに冒され上京、聖路加病院に入院[3]。 ●1910年(明治43年)1月9日 療養のため再び帰国[3][1]。 ●1910年(明治43年)2月18日 郷里ベンスフォークで永眠(43歳)[3]。 ●1910年(明治43年)2月21日 カナダピーターボロのジョージ聖教会で葬儀が行われる[1]。死後[編集]
●1910年︵明治43年︶4月22日 - 三女のロベルタ(Roberta)が誕生する[4]。 ●1926年︵大正15年︶6月6日 - エンバーソンの建てた学生寄宿舎がエンバーソンホールと命名される。親族[編集]
●妻 ヘスター ●長女 ドロシー ●次女 マジョリー ●三女 ロベルタ脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 『静中・静高同窓会会員名簿』平成15年度(125周年)版 旧職員氏名欄には「バーソン ロバート・M」とあり、誤記されたものと考えられる。教授科目、在任期間は「英語 明治36.3~明治40.5 明治41.9~明治42.12」。
出典[編集]
- ^ a b c d e f g 静岡の文化68号. 静岡県文化財団. (2002年2月25日). p. 64-69
- ^ “市指定有形文化財 旧エンバーソン住宅”. 静岡市. 2017年6月3日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l 『愛と感謝 静岡ホーム100年のあゆみ』. 社会福祉法人静岡ホーム. (2009年3月1日). p. 11
- ^ a b c d e f ジャン・W・クランメル (1996年2月25日). 『来日メソジスト宣教師事典』. 教文館. p. 76
- ^ 新聞に見る静岡県の一〇〇年. 静岡新聞社. (1999年11月27日). p. 27
- ^ a b 『静岡教会一二五年史』. 日本基督教団静岡教会. (2009年7月31日). p. 54
- ^ 新聞に見る静岡県の一〇〇年. 静岡新聞社. (1999年11月27日). p. 33
- ^ 『静中・静高同窓会会員名簿』平成15年度(125周年)版 34頁。
- ^ a b 『静岡教会一二五年史』. 日本基督教団静岡教会. (2009年7月31日). p. 56
- ^ a b 新聞に見る静岡県の一〇〇年. 静岡新聞社. (1999年11月27日). pp. 46-47
- ^ 静岡の文化68号. 静岡県文化財団. (2002年2月25日). p. 68
- ^ 『静岡教会一二五年史』. 日本基督教団静岡教会. (2009年7月31日). p. 60
関連文献[編集]
- 松井豊吉(編)『日本メソヂスト静岡教会六拾年史』日本メソヂスト静岡教会、1934年
- 飯田宏「明治時代の静岡市の英学」『静岡女子短期大学紀要』第3号、1956年
- 松縄善三郎「静岡を愛した外国人R.エンバーソン」『静岡の文化』68号、静岡県文化財団、2002年2月25日
- 『愛と感謝 静岡ホーム100年のあゆみ』社会福祉法人静岡ホーム、2009年3月1日
- 『静岡教会一二五年史』日本基督教団静岡教会、2009年7月31日
- ジャン・W・クランメル『来日メソジスト宣教師事典』教文館、1996年2月25日
- 『静岡の文化68号』静岡県文化財団、2002年2月25日
- 『新聞に見る静岡県の一〇〇年』静岡新聞社、1999年11月27日