一柳頼紹
一柳 頼紹 | |
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時代 | 江戸時代末期(幕末) - 明治時代初期 |
生誕 | 文政5年(1822年)[1] |
死没 | 明治2年7月14日(1869年8月21日)[1] |
戒名 | 恭靖軒殿大道義譲大居士 |
墓所 | 愛媛県西条市の仏心寺山 |
官位 | 従五位下、因幡守、兵部少輔。 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 伊予小松藩主 |
氏族 | 一柳氏 |
父母 |
父:村越成芳 養父:一柳寿重、一柳頼親 |
妻 |
正室:秋月種任の娘・益子(マス子) 側室:原田氏 |
子 | 頼明(三男)、紹念(四男)、栄子(一柳末徳正室) |
一柳 頼紹︵ひとつやなぎ よりつぐ︶は、江戸時代後期・幕末期の大名。伊予小松藩の第8代藩主。
生涯[編集]
文政5年︵1822年︶、小松藩主一族である旗本村越成芳︵第5代藩主・一柳頼寿の六男︶の二男として生まれ、叔父にあたる一柳寿重︵頼寿の七男︶の養子となった[2]。﹃平成新修旧華族家系大成﹄では一柳寿重の二男と記している[1]。 天保3年︵1832年︶8月21日、従兄に当たる先代藩主の頼親が死去したため、末期養子として家督を相続した。天保9年9月15日、将軍徳川家慶に御目見した。同年12月16日、従五位下・兵部少輔に叙任する。藩政では文教政策に尽くした。また、幕末の動乱の中で、頼紹は尊王派として三条実美や澤宣嘉らと親交を持った。 慶応3年︵1867年︶11月5日、病気を理由に上洛の延期を朝廷に申し出る。慶応4年1月15日、重臣近藤十左衛門を上洛させて、新政府支持の姿勢を示した。同年2月、病気を理由として藩主に代わり、嫡子頼明を上洛させた。藩論を尊王でまとめた頼紹は[1]、慶応4年︵1868年︶の戊辰戦争において新政府側に与し、藩兵を越後︵北越戦争︶や出羽山形方面に出動させた[2]。 明治2年︵1869年︶、戊辰戦争の功績として賞典金2000両を与えられる[1]。同年6月24日、版籍奉還により知藩事となるが、直後の7月14日に東京で死去した。享年48[2]。跡を頼明が継ぎ、知藩事となった。家族・親族[編集]
正室は、日向高鍋藩主秋月種任の娘・益子︵天保2年︵1831年︶1月 - 明治10年︵1877年︶3月20日︶[1]。なお、先代藩主頼親の正室照子は益子の叔母に当たる。 ﹃平成新修旧華族家系大成﹄は、子として以下を載せる。 ●長女‥栄子︵えいこ、安政元年︵1854年︶7月15日 - 明治26年︵1893年︶11月24日。一柳末徳正室︶[3] ●長男‥頼明︵よりあき、安政5年︵1858年︶7月15日 - 大正9年︵1920年︶1月16日︶ ●四男‥紹念︵つぐむね、万延元年︵1860年︶10月12日 - 昭和4年︵1929年︶3月12日︶ 家督は頼明が継いだあと、紹念に譲られており、明治17年︵1884年︶の華族令施行に際して紹念が子爵に叙せられた。 長女の栄子は、同族の小野藩主家を継いだ一柳末徳︵九鬼隆都五男︶の正室となった。参考文献[編集]
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』(霞会館、1996年)
脚注[編集]
外部リンク[編集]
- デジタル版 日本人名大辞典+Plus『一柳頼紹』 - コトバンク
- 小松藩8代藩主・一柳頼紹の実父は誰か。(回答:愛媛県立図書館) - レファレンス協同データベース