三好章
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三好 章 みよし あきら | |
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生年月日 | 1929年11月4日 |
出生地 | 広島県芦品郡駅家村(現・福山市) |
没年月日 | 2004年8月14日(74歳没) |
出身校 | 宜山尋常小学校 |
所属政党 | 無所属 |
当選回数 | 4回 |
在任期間 | 1991年8月26日 - 2004年8月9日 |
当選回数 | 5回 |
在任期間 | 1975年 - 1991年 |
駅家町議会議員 | |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1970年 - 1975年1月31日 |
三好 章︵みよし あきら、1929年︵昭和4年︶11月4日[1] - 2004年︵平成16年︶8月14日︶は、日本の政治家。第11代福山市長︵4期︶。
経歴[編集]
広島県芦品郡駅家村︵現・福山市︶出身。宜山尋常小学校︵現・福山市立宜山小学校︶卒業。1970年、旧駅家町議になり、1972年に三栄石油を設立し、代表取締役に就任する。その後、福山市議となり、議長を務める。 1991年8月4日に行われた福山市長選挙に、首相就任直前の宮澤喜一の支援と日本社会党や民社党、連合の推薦を受けて立候補。亀井静香の支援を受けた徳永光昭︵元市長の徳永豊の子[2]︶らを破り初当選した[3]。 在職中の1998年4月1日に福山市は中核市に移行した。2003年2月3日に内海町と新市町を編入。同年8月の市長選で元衆議院議員の山田敏雅らを破り、4選を果たす。最初の選挙こそ投票率は50.09%であったが、その後の投票率は23.18%︵1995年︶、28.67%︵1999年︶、33.45%︵2003年︶といずれも低調であった[4]。 2004年7月6日、体調不良で入院。8月9日付で市長を辞職したが、8月14日に呼吸不全のため死去した[5]。 同年9月5日に行われた市長選では、この年に市職員から助役になった羽田皓が初当選した[6]。脚注[編集]
(一)^ ﹃全国歴代知事・市長総覧﹄日外アソシエーツ、2022年、348頁。
(二)^ 誠之館人物誌 ﹁徳永光昭﹂ 広島県議会議員、弁護士
(三)^ ﹁中国新聞﹂1991年8月5日。﹃福山市史 近代現代資料編Ⅰ 政治・行財政﹄に転載。
(四)^ ﹃福山市史 近代現代資料編Ⅰ 政治・行財政﹄ 652-654ページ。
(五)^ ﹁中国新聞﹂2004年7月21日。﹃福山市史 近代現代資料編Ⅰ 政治・行財政﹄に転載。
(六)^ 活力と成長力は﹁人の力﹂で生み出す | 月刊﹁事業構想﹂2013年4月
参考文献[編集]