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中原 綾子︵なかはら あやこ、1898年2月17日 - 1969年8月24日︶は、大正時代から昭和時代にかけての女流歌人。
旧柳河藩士であった曽我祐保の次女として、父の任地・長崎に生まれる。父の転任に従って大阪・神戸・朝鮮へと移るが、主として東京に在住する。1915年︵大正4年︶に東洋高等女学校を卒業後、作歌を始めていたが1918年︵大正7年︶から与謝野晶子に師事し、新詩社同人としてその歌を﹃明星﹄に発表するようになる[1]。同じく﹃明星﹄に参加していた高村光太郎と親交があり、統合失調症を病んだ妻・智恵子の自宅療養と介護に忙殺され疲弊した光太郎は、度々中原へ手紙を送っている 。
おてがみは小生を力づけてくれます、一日に小生二三時間の睡眠でもう二週間ばかりやつてゐます、病人の狂躁状態は六七時間立てつづけに独語や放吟をやり、声かれ息つまる程度にまで及びます、拙宅のドアは皆釘づけにしました、…女性の訪問は病人の神経に極めて悪いやうなのであなたのお話を聞く事が出来ません、手がミ︹ママ︺でお教へ下さるわけにはゆきませんか。… — 昭和10年︵1935年︶1月8日、光太郎が中原に宛てた手紙より
…小生はちゑ子の一生を犠牲にしました。どうかして今夜ちゑ子を安泰にしてやりたいと念願します、あなたの御親切を實にありかたく思います。あなたの同情は私に絶大の力を添へてくれます…今午后十時、ちゑ子は静かに就寝しました — 昭和10年︵1935年︶1月11日、光太郎が中原に宛てた手紙より
1929年︵昭和4年︶6月、吉井勇・秦豊吉らとともに文芸誌﹃相聞﹄︵後に﹃スバル﹄と改称︶を公刊、詩や戯曲を発表する。1931年︵昭和6年︶8月には歌誌﹃いずかし﹄を主宰して発行した。1947年︵昭和22年︶3月、第3期﹃明星﹄に参加し顧問となる。1950年︵昭和25年︶2月には第73期﹃スバル﹄を創刊主宰。同じ年の3月にはロマンス社から﹃定本与謝野晶子全集﹄の刊行のため湯淺光雄とともに編輯し始めるが、ロマンス社の経営難と紛糾のため第1巻で中絶している[1]。
- ^ a b 岡山巖・編『現代短歌全集 第六巻』創元文庫、1952年、232p頁。