中山三屋
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中山 三屋︵なかやま みや、1840年10月20日︵天保11年9月25日︶ - 1871年8月7日︵明治4年6月21日︶︶は、幕末から明治時代初期にかけての勤王女流歌人。名は宮、みやとも表記される。
生涯[編集]
中山三屋は、周防国都濃郡加見村︵現・山口県周南市上村︶の農家・戸倉恭輔の娘とされている。父の恭輔︵後名は中山忠道︶[注釈 1]は農家の出身だが、志を立て江戸に出て幕臣となり、士籍に列した。一時は南部家に仕えていたが後に京都へ移り、大納言中山忠能に仕えて中山家奥女中の室谷民子を妻にめとり、三屋は京都三条丸太坊の寓居で生まれた。 三屋は京都で暮らし、6歳で歌会に出て、のち桂園派の香川景恒の門下として活躍した。13歳の時、1853年1月2日︵嘉永5年11月23日︶に母の民子が死去し、翌年14歳で京都曇華院にて出家、富小路蛸薬師に居住した。慶応3年10月には大政奉還を見届け、28歳の時、五畿山陽九州の旅に出た。三屋は和歌の道だけでなく、幕末動乱の世にあって、尼姿で関西・中国地方の豪商や勤王家らと交際し、各地の情報を収集して中山忠能に送った。九州巡歴の途中で腸の病を患い、周防富田への帰路、防府宮市の末松軍平邸で看病を受けたが、その甲斐もなく明治4年6月21日、32歳で死去した。遺骸は富田の戸倉家に送られ、富田の善宗寺の墓地に埋葬された。ただし、檀那寺は富田の称名寺である。称名寺の過去帳に﹁堀誉智玄大姉 明治4年6月21日、中山三屋﹂と記されている。1970年︵昭和45年︶6月には三屋の百年祭が開催された[1]。著作[編集]
- 『旅日記』
- 『浮木廼亀』(うきぎのかめ) - 中山三屋子遺稿の副題がある。三屋の三33回忌追善集として刊行された歌集[注釈 2]。
脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ ﹃朝日日本歴史人物事典﹄では﹁戸倉岱介﹂とされている。本記事では、﹃徳山市史 上﹄︵第3版︶[1]および清水素︵1994年︶[2]の記述を採った。
(二)^ 三屋の33回忌に当たる1877年︵明治10年︶に矢嶋作郎によって刊行された。矢嶋が自ら収集した遺詠をもとに宮内省御歌所所長の桂園派歌人の高崎正風に遺詠の抜粋と序文を依頼し、私費で刊行した。1867年︵慶応3年︶嵐山で高崎正風が故郷薩摩へ帰省するということで宴が開かれ、八田知紀、小松廉、大久保利通、井上長秋など薩摩の志士に加えて三屋も出席した。この宴で、彼女が詠んだ歌に次の歌がある。﹁うれしくも花のさかりにあひにけり これや浮木の亀の尾の山﹂。書名はこれから取られたが、﹁浮木廼亀﹂は仏教説話で、盲亀浮木と同じ。﹃涅槃経﹄などに出てくるもので、めったに会えないこと。また、仏法に出会うことが困難であることのたとえである。